◆飯山と城の地理◆
まず飯山城址公園の地理的環境について観察してみましょう。上掲のGoogleマップの表示を「地形」にすると、飯山城を中心とする地区の地形を立体的に概観することができます。
別の記事で飯山の地形について説明しましたが、飯山盆地は千曲川が形成したものです。南北に細長い飯山市街の西側には段丘が迫っています。飯山城の西側には、長峰山が南北に長い尾根が続いています。
長峰山の東側斜面は千曲川の浸食でつくられたもので、河岸段丘となっています。千曲川河床と段丘上部の高低差は、最大で50メートルほどもあります。
江戸時代前期までは、この盆地を流れる千曲川は何筋かに分流して、飯山盆地はいたるところに湿原があったようです。その痕跡は、20年ほど前まで丘の際まで湿田が広がっていたことです。飯山城の堀は湿原を掘り下げてつくり、千曲川本流だけでなく、そういう分流から水を引き込んでいたはずです。湿原の水を掘りに落として集め、城の周囲に干拓や土盛りを施して武家屋敷街や商人街を建設したものと思われます。
▲石垣東端から本丸への上り口
▲南中門側から本丸への上り口
▲大手門側から本丸を見上げる
◆飯山城の変遷◆
城郭構造の推移を知るために、戦国期からの飯山城をめぐる状況の変遷について少し触れておきます。
室町末期に北信で勢力を拡大した高梨氏は現中野市を拠点としましたが、やがて武田家に追われて飯山に居館を移しました。武田家の北信濃への伸長に対抗すために上杉家が飯山を征圧していきます。そのさい、高梨家は上杉家の家臣となりました。
上杉家は北に伸長する武田家勢力に備えて、高梨家の居館の高台を全面的に改修・築城を施しました。
城山高台の東側から南側にかけて堅固な土塁を構築してその足元を掘り下げて堀を築いたようです。ことさら水濠とするつもりはなかった――空堀でよしとした――のですが、結果的に周囲の湿原や千曲川から水が落ちて集まって、難攻不落の濠となったようです。
⇒もっと詳しい飯山城の歴史探索
上杉謙信の突然の病死とともに、飯山をめぐる情勢は攻守ところを変えて上杉家は越後に後退し、武田家が飯山城を拠点として統治することになりました。
現在のように、北側から三ノ丸、二ノ丸、本丸と続く構造は、武田家が上杉勢への備え――北に正対して攻め守る構え――として構築した配置で、江戸時代の城郭もこれを土台として整備再構築されたようです。
▲二ノ丸東端からの千曲川の眺め
▲二ノ丸・本丸東端の土塁
▲本丸の南東端の土塁
◆本丸の様子◆
本丸には葵神社が置かれています。その社殿は神明社式――大和王権系――で、幕末まであった城郭内の神社とは伊勢社を別として系統を異にしています。現在の社殿が明治初期の造りを踏襲しているとすれば、戊辰戦争時に起きた火災で飯山は灰燼に帰してしまい、明治政治政府側の権威に屈服した事態の象徴ともいえます。
神社の脇には「天守台」が残されていますが、規模が小さいので、飯山城破却のさいに石垣は壊され、石塁に組み換えられたのかもしれません。それとも、もとから――物見櫓程度で――天守はなかったのかもしれません。
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