芦田城跡が位置する小山は、麓の集落との標高差が最大で55メートルほどだそうです。形状は山頂部が円形で、中腹が長円形。
かたちが整った山なので、郭の配置など築城の仕方がきわめて端正です。つまり、山頂の本丸(本廓)を平らにならしてあって、その周囲の腰郭が同心円状に築かれて、山腹に階段上に配置されています。この端正な形の山城の構造は、依田三郎(芦田光徳)の代以降に築かれたものです。
▲北向きの展望台
▲腰郭が階段状に並ぶ
さて、戦国後期になると武田家が信濃に勢力を拡大します。芦田家は武田の家臣となって各地の戦線で武功を上げたそうです。
武田家が滅んだ後、芦田家は徳川家の配下となって佐久地方の平定統一に力を尽くし、徳川家から重用されたようです――豊臣政権の頃合いです。なかでも活躍したのが芦田信蕃で、岩尾城攻めで戦死した後には息子が松平姓と康国という名を徳川家から与えられて小諸城主に任じられました。
▲本丸石塁の遺構
▲山頂の神社本殿
芦田城跡がある小山の北西から西にいたる麓には芦田川に沿って集落が広がっています。
この辺りから光徳寺辺りまでが古町で、鎌倉時代からの城下町の遺構のうえにある集落です。
とはいえ、戦国時代までの古い街並みの痕跡はほとんど残されていないそうです。
⇒芦田城の鳥観図と地形
▲光徳寺付近の集落
▲集落内の小径は古い時代からのものだろうか
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