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長野県北佐久郡
立科町芦田古町
 
 
中世晩期の城下町


▲芦田城跡の小山と山麓の古町

▲城址から見おろした古町

  芦田城は鎌倉時代に滋野系芦田氏が築城したものと見られます。信濃ではこの立科から上田小県地方から佐久地方にかけても小領主たちが割拠利して城砦を中心に支配圏域を形成していました。山麓の芦田川河畔に城下町集落がその頃から建設され始めたようです。
  ところが1488年、坂城の領主、村上氏が佐久地方に侵入し、その勢力下の依田氏(小県の領主)や米持氏(高井の領主)とともに芦田城を攻略し、芦田氏を滅ぼしたのだそうです。
  新たに芦田城主になった依田三郎光徳は、芦田城を整備し、山麓を流れる芦田川の対岸に居館を築き、芦田姓を名乗って領主となりました。

■端正な城跡遺構■

  芦田城跡が位置する小山は、麓の集落との標高差が最大で55メートルほどだそうです。形状は山頂部が円形で、中腹が長円形。
  かたちが整った山なので、郭の配置など築城の仕方がきわめて端正です。つまり、山頂の本丸(本廓)を平らにならしてあって、その周囲の腰郭こしくるわが同心円状に築かれて、山腹に階段上に配置されています。この端正な形の山城の構造は、依田三郎(芦田光徳)の代以降に築かれたものです。


▲北向きの展望台

▲腰郭が階段状に並ぶ

  さて、戦国後期になると武田家が信濃に勢力を拡大します。芦田家は武田の家臣となって各地の戦線で武功を上げたそうです。
  武田家が滅んだ後、芦田家は徳川家の配下となって佐久地方の平定統一に力を尽くし、徳川家から重用されたようです――豊臣政権の頃合いです。なかでも活躍したのが芦田信蕃のぶしげで、岩尾城攻めで戦死した後には息子が松平姓と康国という名を徳川家から与えられて小諸城主に任じられました。


▲本丸石塁の遺構

▲山頂の神社本殿

  芦田城跡がある小山の北西から西にいたる麓には芦田川に沿って集落が広がっています。
  この辺りから光徳寺辺りまでが古町で、鎌倉時代からの城下町の遺構のうえにある集落です。
  とはいえ、戦国時代までの古い街並みの痕跡はほとんど残されていないそうです。
⇒芦田城の鳥観図と地形


▲光徳寺付近の集落

▲集落内の小径は古い時代からのものだろうか


竪堀の後が城跡への道となっている

本廓の直下の腰郭遺構が登り道

本廓を何段にも取り巻く郭

幅広の腰郭

本丸直下の腰郭 杉林となっている

頂上は本丸として平にならされている

神社の蓋殿。なかに本殿が安置されている。

城の麓の古町集落

芦田川沿いの古町集落

村のなかの小径

 
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