やがて塩名田宿の中央、中山道と小諸道との合流点は佐久平西部の交通の要衝となりました。小諸道は、耳取と落合――ともに古くから城砦と城下街集落がある――とを結ぶ軍道で、浅間山麓の密教寺院真楽寺と蓼科山東麓を結ぶ修験の道でもありました。
この軍道は、塩名田から南に向けては、河原宿東端の段丘上にある滝不動の脇から丘を往く小径となり、落合まで連絡していたようです。
宿場役人を務める丸山家門や宿場の住民となる人びとは、この道を通って耳取や落合などから移住してきたものと見られます。
丸山新左衛門の著書『後見草』によると、宿場の発足当初は塩名田の近隣一帯は千曲川の氾濫原で荒涼たる葦原が広がっているばかりだったとか。用水路整備や水田開拓とともに、上州との境界に近い内山峡から松苗を取り寄せて植林して、植生をつくり変えていったようです。
二階部分の高さがやや低いので昭和前期の様式か
二階部分が高くなっているのが昭和中期~後期の修築の様式
■宿場役人は丸山一族が担う■
さて、宿場を開いた当初は、丸山新左衛門が本陣・問屋・庄屋を兼務していましたが、1656年(明暦2年)に同じ家門の彦兵衛が庄屋となり、そのまま幕末まで庄屋職を続けたようです。宿駅の運営に加えて橋の建設や渡し船など多様な業務を分担させて本陣の負担を軽減するためだと見られます。
延宝年間(1673~81年)には、本陣をもう1軒加えて、斜向かいの丸山善兵衛が担うことになりました。脇本陣は新左衛門の東隣の丸山文左衛門で、問屋も兼務していました。こうして、江戸中期までに本陣が2軒、脇本陣が1軒、問屋が2軒となりました。
今でも屋敷地と建物遺構が残っているのは、本陣丸新兵衛家だけで、脇本陣は明治以降、料亭やバス営業所、食料雑貨店となり、昭和中期に取り壊されました。今は一部が五輪塔群がある丘に向かう道路になっています。
現存の本陣の遺構は本棟造り妻入です。この町家になったのは、1754年(宝暦4年)に火災で焼失した後に再建されたときだと見られます。それまでは宿場の発足当初からの茅葺造りだったようです。もう1軒の本陣善兵衛家の造りも、江戸後期までには本棟造り妻入となっていました。
■宿泊客の収容能力は大きかった■
ところで、次の宿場の岩村田宿には本陣や脇本陣がなかったせいか、塩名田宿の宿泊客の収容能力は佐久平では飛び抜けて大きかったようです。
本陣と脇本陣のほかに、常設の旅籠が11軒ありました。とはいえ、これだけでは中山道を通って江戸まで参覲旅で往復する大藩の随行家臣――最大で3000人を超えた――を収容しきれなかったのはもちろんです。有力な藩の大人数の山峡行列の旅を「大通行」と呼びました。
常設の旅籠のほかに大通行のさいに臨時の宿泊所となる町家が24軒ほどあったそうです。これらの町家はおそらく伝馬屋敷だったのではないでしょうか。
そのほかにも、真言宗の長寿寺と浄土宗の正縁寺には大きな客殿があって、そこに随行の家臣団を分宿させたようです。
切妻棟入にして出梁造りの伝統的な建築様式の町家
|