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長野県佐久市塩名田

  左の写真は、河原宿から段丘崖をのぼって中宿の入り口に立って、東を眺めたものです。
  江戸時代には、この辺りで中仙道は崖地形を利用した桝形の脇を通って崖下に下って河原宿に入っていました。
  ここから右手には、段丘崖の縁を通る狭い小径が通っていて、素の小径は西に折れて河岸に下る細道と南に向かって丘をのぼっていく小径とに分岐していたようです。

 
往古の宿場の痕跡を探る

  室町時代には現在の塩名田の北方に大井氏の耳取城とその城下街が、南方の千曲川と湯川の合流地に落合村が形成されていたそうです。中山道の前身の軍道や街道はこの2つの集落の間のどこかで千曲川を越えていました。
  千曲川は暴れ川で増水氾濫を繰り返して頻繁に河岸の地形をつくり変えていたので、また戦国時代には戦乱によって道筋の変更を余儀なくされたので、渡河地点はしばしば変わりました。


本陣丸山新兵衛邸: 修復されて本棟造り妻入の古い結構を保っている▲

  1980年代には渡河の待機・準備拠点として、塩名田と御馬寄とを結ぶ道筋に寒村ができ上っていたたようです。
  その後、塩名田村はしだいに成長し、とくに徳川幕府が1602年に中山道と宿駅を公式に定めてからは、上記の耳取や落合など近隣の集落から人びとが移住して宿場街の本格的な建設を進めていきました。
  塩名田の宿場役人(村役人)としては幕府や藩の行政の末端を担い、宿場の財政事情の報告を毎年幕府の道中奉行に提出する義務があることから、戦国時代には耳取城主の大井家の家臣で後に郷士となった家門から本陣や脇本陣、問屋や名主などが任命されました。農村開拓と宿場建設右を指導できるほど富裕でかつまた算勘や識字能力を備えている一族だったのです。
  本陣・脇本陣・問屋、庄屋などを務めていた丸山一族は、帰農して耳取集落に住んでいた郷士の家門で、古くは大井家の家臣だった小領主(地侍)だったようです。

■中山道と小諸道とが出会う要衝■

  やがて塩名田宿の中央、中山道と小諸道との合流点は佐久平西部の交通の要衝となりました。小諸道は、耳取と落合――ともに古くから城砦と城下街集落がある――とを結ぶ軍道で、浅間山麓の密教寺院真楽寺と蓼科山東麓を結ぶ修験の道でもありました。
  この軍道は、塩名田から南に向けては、河原宿東端の段丘上にある滝不動の脇から丘を往く小径となり、落合まで連絡していたようです。
  宿場役人を務める丸山家門や宿場の住民となる人びとは、この道を通って耳取や落合などから移住してきたものと見られます。
  丸山新左衛門の著書『後見草のちみぐさ』によると、宿場の発足当初は塩名田の近隣一帯は千曲川の氾濫原で荒涼たる葦原が広がっているばかりだったとか。用水路整備や水田開拓とともに、上州との境界に近い内山峡から松苗を取り寄せて植林して、植生をつくり変えていったようです。


二階部分の高さがやや低いので昭和前期の様式か


二階部分が高くなっているのが昭和中期~後期の修築の様式

■宿場役人は丸山一族が担う■

  さて、宿場を開いた当初は、丸山新左衛門が本陣・問屋・庄屋を兼務していましたが、1656年(明暦2年)に同じ家門の彦兵衛が庄屋となり、そのまま幕末まで庄屋職を続けたようです。宿駅の運営に加えて橋の建設や渡し船など多様な業務を分担させて本陣の負担を軽減するためだと見られます。
  延宝年間(1673~81年)には、本陣をもう1軒加えて、斜向かいの丸山善兵衛が担うことになりました。脇本陣は新左衛門の東隣の丸山文左衛門で、問屋も兼務していました。こうして、江戸中期までに本陣が2軒、脇本陣が1軒、問屋が2軒となりました。
  今でも屋敷地と建物遺構が残っているのは、本陣丸新兵衛家だけで、脇本陣は明治以降、料亭やバス営業所、食料雑貨店となり、昭和中期に取り壊されました。今は一部が五輪塔群がある丘に向かう道路になっています。
  現存の本陣の遺構は本棟造り妻入です。この町家になったのは、1754年(宝暦4年)に火災で焼失した後に再建されたときだと見られます。それまでは宿場の発足当初からの茅葺造りだったようです。もう1軒の本陣善兵衛家の造りも、江戸後期までには本棟造り妻入となっていました。

■宿泊客の収容能力は大きかった■

  ところで、次の宿場の岩村田宿には本陣や脇本陣がなかったせいか、塩名田宿の宿泊客の収容能力は佐久平では飛び抜けて大きかったようです。
  本陣と脇本陣のほかに、常設の旅籠が11軒ありました。とはいえ、これだけでは中山道を通って江戸まで参覲旅で往復する大藩の随行家臣――最大で3000人を超えた――を収容しきれなかったのはもちろんです。有力な藩の大人数の山峡行列の旅を「大通行」と呼びました。
  常設の旅籠のほかに大通行のさいに臨時の宿泊所となる町家が24軒ほどあったそうです。これらの町家はおそらく伝馬屋敷だったのではないでしょうか。
  そのほかにも、真言宗の長寿寺と浄土宗の正縁寺には大きな客殿があって、そこに随行の家臣団を分宿させたようです。


切妻棟入にして出梁造りの伝統的な建築様式の町家


昭和中期ま栄えていた老舗の町家店舗が並ぶ一角▲


町家の間の狭い路地は作場道田園や耕作地に連絡する▲


丁寧に修復してある町家店舗の古民家▲


昭和期に伝統的様式を保持しながら総二階造りにした町家▲


この小径が小諸道で、左脇が脇本陣の跡地▲


街の中ほどから西方の眺め。昭和期の商店街の雰囲気を残している。▲


同じく東方の眺め▲


もう少し東に進んだところの街並みの様子▲

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