この記事の目次
信州と木曾路
木曾路は大森林地帯
運輸=物流システムとしての街道と歴史
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奈良井まちあるき 《木曾路の歴史》の見どころ


信州と木曾路

木曾谷の眺望

上の写真は、鳥居峠から木曾谷・平沢方面を見下ろした風景です。

中山道は、信濃を通って江戸と京都を結ぶ重要な街道でした。
信州の中山道のうち、西半分を占めるのが木曾街道(木曾路)です。
信濃は、中山道の中央部にあったので、北陸越後方面や関東方面、あるいは甲州(山梨)方面と江戸や京都を結びつける重要な位置を占めていました。

北陸越後からは「北国街道」がやってきて、軽井沢の西の追分宿で中山道と合流しました。甲府からは「甲州街道」が伸びてきて、諏訪で中山道と連絡しました。
そして、中山道は東海道と琵琶湖の近くで出会いました。

《木曾路の歴史》《木曾路の歴史 2》《木曾路の歴史探訪@〜B》という記事は、中山道と木曾路の歴史をごくおおまかにさぐるものです。
江戸時代の街道や宿駅(宿場)とはどういう制度であったのか、を説明します。
⇒《木曾路の歴史》を見る




木曾路は大森林地帯

街に迫る山林

上の写真は、宿の集落に迫る山林です。木曾は豊かな山林に取り巻かれています。

徳川幕府にとって、木曾の山林資源、とりわけ森林=木材を統制することは、きわめて重要でした。
木材は、城郭や砦、橋を建設するのに不可欠の資源でした。また、都市や住宅の建設にも必要な資源です。
こうして、山林を管理・統制することは、軍事面でも経済面でもきわめて重要でした。

この意味で、木曾谷と木曾街道を治めることは、幕府や徳川家にとってたいへん大事なことでした。街道の統治のためには、森林とかかわる街道沿いの街や村の人びとの生活をうまく取りはからう必要がありました。

もちろん、街道と宿駅は交通=物流システムの要ですから、宿駅の運輸産業を保護・管理することも、幕府の重要な仕事でした。
《木曾路の歴史 2》を見る




運輸=物流システムとしての街道と宿駅

上の写真は、奈良井宿のある店の前に置いてある昔の道中かごです。
江戸時代、一般庶民を乗せて運んだ道具です。まあ、昔のタクシーということでしょうか。
前後2人が担いで進むので、揺れます。乗り心地は楽ではなかったでしょう。

近代の交通体系が建設される以前は、人力と馬や牛などの獣畜だけに頼る運搬でした。

街道のそれぞれの宿駅は、次の宿までの人間や物資の移動・輸送に責任を持つことになっていました。宿場の一番重要な仕事は、幕府や各藩の公用の旅客と物資を次の宿まで安全に送り届けることでした。
この仕事を運営管理していたのが、問屋で、問屋場と人馬会所がその仕事場でした。

《木曾路の歴史探訪 ―街道と宿駅@〜B》は、交通=輸送システムとしての街道と宿駅という制度の歴史(あらまし)をさぐります。
《木曾路の歴史探訪 ―街道と宿駅@》を見る