上の写真は、鎮神社から見た奈良井の町並みです。
街道と宿駅の制度が固まったのは、江戸時代のはじめです。
それまでは、近隣の有力な土豪や領主が奈良井宿や木曾路を支配していました。
奈良井は、中世には土豪の奈良井氏の支配下にありました。戦国時代の末期には、近隣の領主の山村氏の統治下に入りました。
やがて徳川政権が幕府を握ると、山村家は最初は幕府直轄の代官となり、次には尾張徳川家の代官として木曾路一帯を治めるようになりました。
奈良井宿は発足の歴史も古く、木曾路でもっとも繁栄した大きな街でした。交通や商業の要衝として、周辺一帯に大きな影響力をおよぼしました。
《奈良井を歩く》《奈良井を歩く 2》《木曾路を歩く 3》《奈良井の歴史散歩》という記事は、奈良井宿の歴史をさぐるものです。
⇒《奈良井を歩く》を見る
上の写真は、上問屋史料館です。
奈良井宿は近隣一帯に大きな影響力をおよぼしていました。
宿場には旅館や商店が多く、宿駅の仕事を経営する問屋も「上」と「下」の2軒ありました。運輸の仕事にかかわる人や牛馬も、ほかの宿の倍以上いたといいます。
左 特産物の木工品や漆器 右 平沢の街並み
奈良井の有力商人たちは、物流の拠点という街の地位をいかして、木曾の森林資源を活用した木工細工や漆器づくりの手工業を育成しました。
とりわけ木曾平沢では、奈良井の影響のもとで木工や漆器の生産が大きく成長・発展しました。
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上の写真は、鳥居峠の登り口から見下ろした奈良井宿の眺め。
奈良井宿のすぐ西には、鳥居峠が迫っています。木曾路でも一番の難所だといわれていました。
けれども、この交通の難所が奈良井宿をはぐくんだと考えられます。
面倒な難所=峠声に備えるために、人びと休息・宿泊とか物資の輸送のための準備拠点が必要になったからです。
飲食やb宿泊の施設がつくられ、物資が運び込まれて集積されました。物資の保管や分配のため、商業や物流の管理ため、設備や人員が集まりました。
運輸のために便利な設備や人材が集まっているので、さらに旅客や貨物が集まるようになっていきます。
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