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長野県上水内郡小川村
街道分岐点の街  


▲小川村役場庁舎

  小川村を通る大町街道と戸隠街道は、往時、小規模な都市集落を結ぶ主要な道でしたが、東海道や中山道のように幕府が管理する主要街道とは違って、宿駅や駅逓の制度はなかたようです。
  小川村から鬼無里村、戸隠村にかけての一帯は松代藩真田家の領内にありました。松代藩は幕府の支援を受けながら、これらの村々にある神社や寺院を庇護し、街道の保全のために手立てを抗していました。
  1960年代(昭和40年)頃まで、小川村や鬼無里村には街道沿いに山村にしては大きな規模の都邑(集落)がありました。旅館や商店なども多く、村内の神社や寺院の祭礼・行事には近郷近在からたくさんの人びとが集まって、にぎやかなものでした。


   ▲高府集落の西側。集落の周囲には田畑が広がり、尾根山腹が住宅の近くまで迫っている。▲

■街道の街としての高府■

  小川村高府集落は大町街道から戸隠街道が分岐する追分となっていました。大町街道は北国街道長野宿と善光寺に連絡し、戸隠街道はその名のとおり戸隠神社に向かう道でした。
  神社仏閣への参詣旅行が盛んになった江戸時代後期には、多くの旅人が高府の街を往来したはずです。
  80代以上の高齢者たちに話を聞くと、小川村の高府は善光寺平とその北西の山間部――「西山」と呼ばれる――では名の知れた有力都邑のひとつでした。
  ことに武部八幡神社の祭礼には近隣から多くの人びとが参集して、それはにぎやかだったといいます。

  高府には商店も多く、1970年頃までは、住民生活に必要な物資やサーヴィスは集落の内部で基本的に充足されていたようです。しかし、高度成長にともなうモータリゼイションによって交通体系も生活スタイルもすっかり転換してしまいました。


▲村役場の右手は小川小学校

  小川村からは多くの住民、とりわけ若年層がより高い収入がともなう雇用機会を求めて長野市街や東京方面に出ていくようになりました。過疎化や少子高齢化が進みました。
  それでも、小川村に残って穏やかな山村生活をゆったり楽しむ人びとも多く、数年前の長野市との合併賛否をめぐる住民投票では過半数の有権者が村の独立自存を選択しました。
  山村の美しい自然環境と調和した伝統的な生活スタイルに愛着を持つ人びとが多く、できる限り自立的な村づくりの努力を続けようとしているのです。
  今後、この村でもグリーントゥーリズムの普及に対応し、自ら農村生活の良さを再発見し、村の活性化につなげていくことを願っています。外国人も含めて都市生活者の多くが農業体験に楽しさや癒しを覚えるようになり、伝統的な農村生活に勝ちを見いさすようになっています。


▲村役場の前の山道。高府の街の中心部でも、すぐ手が届くところに山里の自然環境がある。


小川小学校の南側の辻に立つ道祖神の桜

集落の住宅のあいだに田畑が割り込んでいる

大町街道。背後の尾根の上を戸隠街道が通っている

街道沿いの高府の街並み

街並みには空き家が増えている
街道の街なので今でも保養施設や旅館が多い

通り沿いに旅館が集まっている一角
尾根を回り込む街道

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