小川村の高府は、近世には糸魚川(千国)街道沿いの北安曇・大町と長野の善光寺を結ぶ大町街道の要衝となっていました。高府はまた、大町街道から戸隠神社に向かう戸隠街道の分岐点ともなっていました。
高府から18キロメートル北東には戸隠神社があり、小川は古くから戸隠神社の強い影響下にあったものと見られています。
平安時代の後期には、小川村は「小川の庄」と呼ばれる、大和王権(天皇家)と結びついた荘園となっていました。
小川郷の歴史は古く、5000〜6000年前の縄文人の集落跡が発掘されています。9世紀はじめには高府の近くに「竹生」という集落があって、後に日本武尊の神話と結びついて「武部(たけるべ)」郷と陵墓がつくられたとも言われています。それがこの村の武部神社の起源とされています。
「竹生」は「たけふ」または「たけぶ」と読みだったとすると、武部(たけるべ)や後の「高府(たかふ)」という地名のもとになったのではないか、と私は勝手に推察しています。
やがて戸隠神社の勢力が拡大すると、この地を統治していた戸隠神社の顕光寺が鳥羽院に寄進し、天皇家の荘園となったと言われています。12世紀半ばには「小川庄」と呼ばれるようになったのだとか。
王権直轄領である小川庄には官衙が置かれていたことから、北信濃一帯に王権の権威を伝達する拠点となっていたようです。
▲山桜開花の頃(4月中旬)
◆鎌倉時代の寺の再興◆
伝説では、9世紀の坂上田村麻呂が東征のさいにこの地に立ち寄り小観音菩薩を祀ったことが、高山寺の起源とされています。
小川郷を支配した戸隠神社は密教修験の拠点で、顕光寺の統制下で神社とその荘園を管理する寺院群は天台宗と真言宗が混在していたようですが、その影響下で高山寺(その前身)も小川郷の政治と文化の拠点となるべく、平安時代に真言宗寺院として創建されたのではないでしょうか。
その後、寺は衰微したようで、12世紀には、源頼朝の命で小川郷の堂平という場所に三重塔を含む堂塔伽藍を再建立したそうです。その頃には、小川庄にも鎌倉幕府の権威や権力にしたがう地頭領主層が台頭していたということでしょう。
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