▲奈良井宿に迫る鳥居峠
木曾路は鳥居峠で遮られる。難所の峠越えのために、手前に準備拠点として街が建設され成長していった。
山岳や河川湖沼など、道路交通をはばむ自然の地理的要害の前後には、都市集落が生まれ成長するようです。というのも、輸送交通手段のテクノロジーが未発達だった時代には、人びとの歩みはそこでひとたび遮断されるからです。
人や物資の動きは、いったんそこで止まり、障害を越えていくための補給や休息(飲食と宿泊)が必要になります。人びとが集住する集落が生まれ、人や財貨・物資が集積することになります。
こうして、中世までには中山道の元になる街道と要衝集落は出現していたようです。
峠や川の前後に開けた都市集落は、交通輸送・通信の中継拠点となっていきます。宿泊施設や飲食施設、倉庫などが設置され、商人や輸送業者が集住することになります。
春の奈良井宿
物資、財貨の集積は、物流や備蓄・補給を管理する仕組みを必要とするので、そういう拠点にはかなりの人員が配置され、集住することになります。
そういう人びとの日常生活、つまり衣食住のニーズに応えるためのサービスもそこに集積することになるのです。
こうして、都市集落が形成され、発展することになります。
してみれば、自然要害の前後に位置して峠越えや川越えの準備や用役をまかなう場所には、繁栄した都 市集落が成長することになります。
奈良井宿はこうして生まれ栄えてきた街道の街のひとつなのです。
江戸時代の中期以降には、宿駅制度を土台にした「郵便制度」が組織されていきました。
それぞれの宿駅の問屋は、幕府や諸藩の公用の書簡や貨物・財貨の運搬を街道に沿って継ぎ立てする業務を担っていましたが、やがて商業や都市の発達にともなって、「民間」業者による物流をも取り次ぐようになっていきました。
妻籠宿の郵便史料館
たとえば、尾張の反物問屋が諏訪の業者まで商品を送る場合に、中津川から下諏訪まで中山道の宿駅の問屋場に荷駄による商品の運搬を依頼することもあったでしょう。
この場合、反物問屋は輸送経路全体の運賃を見積もって、中津川の問屋場に運賃(荷駄による輸送代金なので「駄賃」と呼んだ)を現金または節季ごと決済の信用状で支払います。信用状とは、だいたい現在の約束手形や債券証書と同じようなものです。
その先は、妻籠、馬籠・・・と各宿場の問屋場が荷物の継ぎ立て・申し送りをおこなうことになります。
問屋たちは、貨物を受領してから次の宿駅までの輸送を手配し、その間の代金(駄賃)を受け取り、そのなかから馬方や歩行役(さらに木曾路では牛による運搬を担う「牛方」もいた)への駄賃を支払いました。
駄賃には、「公定料金」はなく、地方ごとの「相場」というものがあったようです。相場は、地方の身分=職分団体のあいだの暗黙または明文による取り決めで成り立っていました。
ところが、業務の取次ぎや管理は問屋主人(家門)の公認の独占業務でしたから、自分や馬方、歩行役の取り分の分配をめぐって、自分の利害による裁量の余地がありました。
そこで、利害の衝突や紛争が起きることもあったようです。
幕藩体制のもとでは、生産の管理や商業の業務は家門の職分によって特権が与えられる身分制によっていたので、宿駅制による民間の貨物郵便の料金には、こうして問屋の個性や人格に応じて誠意や貪欲などが絡み込む可能性があったのです。
島崎藤村の『夜明け前』には、強欲な問屋と牛方との深刻な利害対立と紛争が描かれています。
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