中禅寺の創建は、9世紀前半、平安期の中頃だということです。空海が雨乞いのための庵を結んだのが、開山の端緒となったとも伝えられています。
空海(と弟子たち)は、唐に渡って学んだ、その頃日本で最高の建築・農業土木のエンジニアであり、農学者、医師だったのです。だから、降水量の少ない塩田に最先端の農法や灌漑技術を伝えたのではないでしょうか。
◆信州の学海◆ もちろん、優れた医術、薬学、工芸技術をも教え、この地での仏教や学芸研究の基礎を与えたのでしょう。
彼らは、現世利 益の思想にもとづいて、近隣の民衆の経済活動や工芸の支援、育成に努めたのだろう。
そういう経緯もあって、平安末期から鎌倉、室町時代にかけて、塩田平・別所は「信濃の学海」と呼ばれるようになったということです。
学海とは、海のように広大無辺に学術が栄え、偉大な成果を達成することを意味します。ここでは、業績が飛び抜けて大きい学問の中心地というほどの意味ではないでしょうか。
平安・鎌倉以降も優秀な僧たちが歴代、宋代中国に留学して、最先端の仏教思想とともに学術や医学、芸術、工芸などの思想や方法を塩田の地に持ち帰り、研鑽研究を加えたのでしょう。
そんな寺院・学窓群のなかに中禅寺も加わっていたといいます。だから、往時はさぞや見事な堂宇や伽藍などがあったのでしょう。
◆鄙の趣、簡素な薬師堂◆ ところが、室町後期から江戸期にかけての度重なる火災で、大きな建物は失われていったようです。今では、本堂と薬師堂だけが残っています。とはいえ、それはそれで、鄙びた古刹の趣があって面白い。
さて、現存の中禅寺薬師堂は、平安末期から鎌倉時代初期に建てられた阿弥陀堂形式の建築で、この建築様式としては中部地方では最古の建築物だといいます。
薬師堂は、本堂から山側に少し登ったところにあります。萱葺き屋根のこぢんまりしたお堂です。
茅葺きの寄棟造りのお堂です。屋根の「そり」と「むくり」の絶妙な調和を見せています。
お堂のすぐ背後まで山腹が迫っています。独鈷山に続く尾根斜面が中禅寺の境内で、数多くの桜の木に囲まれた端正な庭園のなかにあります。
薬師堂の前(東)には小さな切妻仁王門があって、今、その手前には小さな枯山水の庭があります。庭に立って枯山水、枝折戸、切妻門越しに薬師堂を眺めるのも趣深いものです。
|