◆佐々屋幾神社◆
▲壇上境内にのぼる石段
▲社務所
佐々屋幾神社には、7世紀半ば頃まで遡る神話時代の伝説がありますが、詳しい由緒は不明のようです。
この神社の参道は、現在、閏田集落の中心部から北に逸れたところから始まって南東に進み、塩の道を横切って石の鳥居まで達しています。
▲閏田集落内から始まる参道
街道脇の鳥居は神明宮様式ですから、すくなくとも明治以降は大和王権・伊勢神宮系の神社となっているようです。本来そうであったのかどうかは、明治維新前後の政府が始動する政治運動で強引な変革がおもなわれた――社殿などもつくり変えられた――ので、江戸時代までのことは不明です。
鳥居をくぐると、山腹斜面の壇上境内まで杉林のなかの参道が続き、壇上中心には主拝殿とその奥の本殿、北脇に社務所、南脇に神楽殿が置かれています。本殿の北奥には摂社群の祠が並んでいます。
本殿の裏手は比較的傾斜のなだらかな斜面が続いているので、往古には三条まで続く小径があったものと想像できます。上の尾根は幅広なので、往古には密教修行場と寺院があったのかもしれません。
▲神楽殿(舞殿)の様子
▲壇上境内から石段下を見おろす
◆大日堂◆
大日堂とは、大日如来を祀る堂宇のことです。信州では、古い集落の道脇に小庵や祠のような小さな大日堂がしばしば見られますが、この大日堂はこじんまりとはしていますが、かなり立派な堂宇です。大日如来は、もとより真言密教で最も崇められた仏です。
この集落には、かつては大きな寺院があって、多くの塔頭や七堂伽藍をともなう立派なものだったという言い伝えが残されているそうです。大町を含む安曇野では、明治心の頃に神仏分離と廃部希釈運動が激しく繰り広げられ、多くの寺院仏閣が破壊されてしまいました。
「歴史の進歩」とか変革といわれるものが、そういう過酷な破壊をともなうものであるとするなら、私はそういうものに後ろ向きにならざるをえません。
▲集落の外れの田畑に囲まれた境内
▲ここでかつては盛大に祭事がおこなわれたのかもしれない
佐々屋幾神社の裏手には南に伸びたなだらかな尾根があって、その南端に秋葉神社が位置しています。そして、尾根の北の山頂の北側には西に開けた谷間があります。その谷の上には、これまたなだらかな中腹台地があります。
このどこかに、往時の霊松寺にも匹敵する、堂塔伽藍を備えた大きな寺院があっても自然な感じがします。真言密教では、ことのほか土地の神と仏教との濃密な結合がはかられていたようです。
この大日堂は、明治期の廃仏運動の結果、ここに移転したものなのか、古くから山上の奥院の里院・里宮のような末寺だったのか、それを知る手立てはないようです。 |