▲街道脇に並ぶ石仏
上記の理由で、大町では東山山麓に古くからの村落が並び、寺院や神社が多いのです。そういう古い集落を結んで塩の道は開かれ、また塩の道に沿って開拓が進み、村落や耕地が形成されてきたのです。
江戸時代に幕府や各藩が街道制度を整備しましたが、山岳地では幅2尺あるかないかの険路、隘路が多く、明治以降に激しい起伏は均され拡幅されたものの、いまだに街道は上り下りや屈曲に富んでいます。
松本から南北安曇野地方には、泉小太郎(犀竜小太郎)の伝説が残されています。その伝説から私は天地創造の物語を空想しました。根拠は安曇野や大町の地形です。
遥か古代、たぶん縄文初期よりも前、アルプスをはじめとする近隣の山岳から水を集めて、松本や安曇野は巨大な湖がいくつもあって、やがて提となっていた丘陵や尾根が決壊して高瀬川の下流部や犀川ができた、というストーリーです。たしかに流域の山岳から犀川を眺めると、蛇行しながら河岸の谷を削るように流れる犀川は、巨大な竜が長い身体をくねらせて地を往くように見えます。
かつての湖底はそのまま、高瀬川や梓川などの暴れ川の河川敷となり、それらの川は蛇行しながら大地に浸食作用をおよぼし、さらにたびたび氾濫し、現在の南北安曇野の盆地平原を形成したのではないか、と思うのです。
巨大な湖水の名残りが、大町市北部にある仁科三湖、すなわち木崎湖、中綱湖、青木湖で、農具川水路で結びついているこれらの湖は、大決壊の後もしばらくは、ひとつの広大な湖をなしていたのではないでしょうか。
そして、はじめのうちは東山山麓にぶつかっていた高瀬川が浸食作用でしだいに西側に移っていき、大町市の南部に向かってゆるやかに湾曲する流れになっていったのが、平安時代から鎌倉時代にかけての頃だったのではないか。とはいえ、江戸時代までは、高瀬川の周りには何本もの分流が流れていたものと考えられます。
すると、北大町は高瀬川による破壊をあまり受けない河岸段丘上の丘陵となったので、集落建設や耕地開拓が始まり――若一王子神社(その起源となった社)がつくられた――、段丘の最上部となった東山山麓の丘陵地に塩の道が開かれ、その周域に集落と耕地が形成されていった・・・。
▲秋葉神社下から閏田集落への小径
社地区の北では高瀬川が山塊に衝突するところですから、浸食が強烈で標高差20メートルほどの断崖地形をなしていて、緩やかな斜面はありません。その南では高瀬川が硬い山塊岩壁にぶつかった反動でやや西に大曲りするため、扇状地のような丘陵斜面がつくられ、そこに社集落と農耕地が開かれたのではないでしょうか。
▲石垣のあいだに大日堂の参道小径がある
社地区には古くは舘ノ内とか古町と呼ばれた地籍もあるとか。ここには閏田と曽根原と集落名もあって、その南には池田町の北原、宮本、さらに南には堀ノ内という地籍名があります。平安時代から室町末期までは、古代ないし中世風の城下町や都邑がいくつかあったとも考えられます。そして、この一帯には数多くの神社や寺院があって、池田町と旧八坂村も含めて、ここから霊松寺がある辺りまでは密教修行の地となっていたかもしれません。
ところが、明治維新にさいして南北安曇野を統治していた松本藩戸田家は明治政府への帰順が遅れたため、存亡の危機を感じて新政府を過剰に忖度して神仏分離令と廃仏毀釈運動をものすごく過激に進めました。国家神道イデオロギーへの過剰な順応を民衆に強制し、ほとんどの寺院を破壊しようとしました。
僧侶を中心として民衆の反発や政府への嘆願があって、さすがに明治政府も行き過ぎを抑え、しかも廃藩置県政策を進めることで、松本藩による寺院廃絶政策は頓挫しました。しかし数年のあいだに南北安曇野の多くの寺院は破却されてしまいました。大町、池田町、松川村だけで15の寺院・堂庵が廃されました。仏像や古文書など寺院の文化財も焼却されたり散逸したりで、古い時代の仏教や寺院の歴史が失われてしまいました。
|