▲薬医門と土塀が豊かさを示している
千国街道沿いに歩くとときどき出会う集落は、見たところ民家はまばらです。しかし、近隣の寺院や神社の数あるいは歴史から見て、往古にはかなり大きな人口の集落が並んでいたはずです。
江戸時代後期あるいは明治以降になって高瀬川の治水が進んでから、現在の大町市街南部や高瀬川沿いの水田や集落の開拓のためにここから移住していったのではないでしょうか。神明宮の氏子グループが大町市全体に分散しているのも、そういう背景があるように考えられます。
信州の古い街道をめぐる旅を続け、その歴史と文化を探索してきた私からすると、社地区の住戸数は、可耕地の面積からしていかにも少なすぎるという印象です。
大町市の千国街道をめぐる各地区の歴史の痕跡は、かなりの程度失われてしまったようです。<
▲庫裏の樹の辻の様子
庫裏の大樹下にある石仏
宮本地区は高度成長から取り残され、昭和後期千国街道を行き交う人の数はめっきり減ってしまったそうです。ところが、近年の歴史ブームや神明宮の知名度上昇のおかげで、最近はここに訪れる観光客が増えてきたようです。
海鼠腰壁土蔵の脇の大ケヤキは今はない
▲神明宮に向かってのぼる小径▼
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