▲街道から三本杉までは210メートルほど歩く
一の鳥居は塩の道から東に20メートルほど入ったところに立っています。そこから三本杉までが200メートル、さらにそこから手水舎まで50メートルほどの距離があります。
三本杉と呼ばれていますが、真ん中の1本は40年ほど前に倒れてしまったので、今では2本だけになっています。それにしても、樹高が50メートル以上もある巨木で樹齢は500ほどはありそうです。この先の拝殿脇にも朽ちかけた杉の巨樹の株が残されているが、これは根回りが19メートルもあったといいます。
まさに神苑境内の鎮守の杜は杉やヒノキ、サワラなどの大木からなっている。この杜も人びとの手で400~600年にわたって守られてきたものです。
さて、境内にある社殿や祠、施設の配置を見てみましょう。
主拝殿までは二の鳥居から三の鳥居をくぐってまっすぐ北に進みます。この径を中心に、左手(西側)には社務所、その奥に宝物収蔵庫、さらに奥の壇上西端に小さな祠群の列があります。この列は、八幡社、稲荷社、諏訪社、子安社などが並んでいます。
拝殿までの径の右手(東側)には、収蔵庫があって、その奥には小祠の列――北野社、白山社、北野など天神社――が続いています。壇上拝殿脇には神楽殿が置かれています。ここまでは、主拝殿と本殿を取り囲む祠や施設です。
▲二の鳥居の東側には池がある
▲池の奥には天満宮などの摂社祠群が並ぶ
さて、主社殿群の前には神門が結構されています。主社殿の最前面には拝殿があって、私たちはここで参拝することになります。拝殿の奥には中門、釣屋、本殿が一体化した社殿群となっています。この3つの社殿群が国宝となっています。
古い神門の姿
▲指紋の背後にある拝殿
右から奥に向かって中門、拝殿、釣屋、本殿が並ぶ
ところで、古代律令制の地方統治はきわめて未熟でまともな行財政組織はありませんでした。荘園所領が開拓・形成されていくにつれて律令制は崩壊していきますが、逆に地方統治組織は地方で実際的な権力や武力を保有する者――寺社や地頭領主――たちによって担われ、地方統治組織が確立されていきました。
地方で農村の開拓が進み富が蓄えられていくと地方豪族が台頭し、大和王権中央の威令は軽んじられるか無視されるようになっていきました。
平安末期から仁科地方で開拓を指導し、平和と統治の実務を担った領主、仁科氏のもとで、本格的にこの神明宮の経営が確立され、式年遷宮行事が執り行われるようになったようです。そういう催事は、13世紀から16世紀戦国時代)まで400年間も続けられたとか。
▲拝殿内の様子:奥が中門
▲祠群の上、主社殿群の西脇に仮宮がある
壇上から境内を見おろす
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