▲鐘楼門の側面(境内西側から)
高遠の街を兜山の麓まで東西に走るのは国道361号(杖突街道)。この道を高遠郵便局前で左折すると、親縁山満光寺の参道にぶつかります。
参道は段丘斜面を北にのぼっていきます。地井さん山門をくぐると、右に小ぶりですが端正なお堂があります。その先に石段で、石段の上には重厚な造りの鐘楼門が屹立しています。
満光寺の創建は、戦国後期の1573年(天正元年)で、浄土宗の高僧だった笈住上人が開山したのが始まりだそうです。当時、高遠城主は武田信玄の実弟、信廉で、武田家と上人とは親交が深く、寺の開創は武田家の招請によるものかもしれません。
ところが、創建後の度重なる火災で、堂宇も記録も焼失したため、元禄以前の寺の歴史は不明なのだとか。
▲位牌堂(明治以降の建築)
▲極楽の松の説明板
さて、鐘楼門の奥の境内には、樹高が低い黒松が枝を広げています。「極楽の松」と呼ばれています。武田信廉が自ら高遠城にあった黒松を境内に移植したと云えられています。典雅な枝振りなので、見るだけで極楽浄土にいる気分が味わえるようだという理由で、名前がつけられたのだとか。
1691年(元禄年間)、内藤清長が高遠藩に入封すると、満光寺が内藤家の菩提寺に定められました。寺は高遠家の庇護を受けて、伊那郡内の浄土宗の中心的な存在となって寺運隆盛を迎えたそうです。
その後1739年(元文年間)、寺の堂宇再建のさいには材木にシナノキを使い、伽藍配置を長野の善光寺に模したにしたことから、「伊那善光寺」と称され、伊那群で七堂伽藍が最もみごとな姿の寺院となったと伝えられています。
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