◆峡谷と兜山◆
▲城の南端から見おろすダム
⇒Googleマップ地形図参照
兜山は北東に緩やかに頂角を張り出した五角形をなしています。
高遠城は南西側の三峰川渓谷の崖を背後の守りとして、北西から北東にかけて防御の正面を設けている縄張りとなっています。言い換えると、北西から兜山にのぼる道と進徳館にかけての部分を分厚く防衛する曲輪の配置となっています。
というのも、これらの部分に道があって、しかも丘の傾斜が比較的緩やかで、敵の進軍経路となるからです。
ところが、城下街は城の北側にあって、城とのあいだに三峰川と藤沢川が急流と峡谷があるので、城下街を包括して城郭を防衛する惣構の構想は採用されていないようです。つまりは、戦国中期までのやや古い城郭防衛思想(中世的な城郭思想)にもとづいている構造です。
それは、高遠の地形がしからしめるもので、兜山に山城を構築する限り、いわば避けられない軍事戦略といえるでしょう。
戦国末期の城郭防衛構想は、城直下の都市集落を含めた面状の防御圏域を惣構えとして設定して、兵站補給体系を掌握したままで城郭を防衛するという構造にはなっていません。
▲法憧院曲輪と南曲輪のあだの掘
◆曲輪の配置◆
以上の構想から、城郭の北西端に大手門を設け、その北側から東側を取り巻くように三ノ丸を配してあります。城の北西側は段丘崖で、これを土塁で補強し、北側から北東側も山腹斜面を土塁で補強して防御する構造です。
城の東側も段丘崖で、そこに水濠ないし空堀をめぐらせて、城の南側の峡谷まで懸崖を形成してあります。そして、南西側の峡谷崖に沿って、北から勘助曲輪、本丸、南曲輪を並べ、南曲輪の南東には法憧院曲輪――法憧院という寺院があった――を配しています。本丸の南側に笹曲輪を設けて、三峰川崖側の監視を担わせました。
さらに、三ノ丸の内側に勘助曲輪から南曲輪まで、本丸を取り囲むように二ノ丸を設置し、その外側には二ノ丸堀を築いて三ノ丸とのあいだに懸隔を設けてあります。本丸と二ノ丸とのあいだにも空堀と土塁で防御設備を施しています。
三ノ丸から二ノ丸との間の掘には数か所架橋されて行き来するようになっていました。二ノ丸に勘助曲輪から本丸のあいだも同様な仕組みになっています。
これは、言ってみれば短期の籠城戦に備えた構造で、したがって、城郭の各部分(曲輪)のあいだの連絡を機動的に保つというよりも、城下街や外部との連絡路を遮断することを最優先とする構想です。
そうなると、街道などの連絡路を構築して、城下街の中枢部分を城と一体的に防衛する惣構えとなならないのです。
戦国中期までは、兵站補給線を構築することなく包囲戦を仕かけて兵糧攻めにするものの、手持ちの食糧や武器弾薬が尽きれば講和を結んで終戦に持ち込む戦略でしから、そんな防衛構想でも間に合ったのです。
▲勘助曲輪の北端にある太鼓櫓
さて上記のように、城郭そのものは鉄壁ともいえる防御体制になっています。しかし、城郭の兵站補給体系となる城下町を取り込んだ面状の(惣構え)防御構想は、地形的に見て採用されませんでした。したがって、戦国末期に兵站補給線を確保して状k町を含む周囲を取り囲んだ城郭攻囲戦になったときには、持ちこたえられないという宿命を免れませんでした。
というしだいで、織田信長の軍勢が高遠城を攻囲したときには、落城を避けられなかったのです。
▲本丸と勘助曲輪を仕切る堀に架かる桜雲橋
▲城跡の樹林に囲まれた高遠閣
今、高遠城址はタカトオコヒガンを中心とした樹木に覆い尽くされています。ここは軍略y装置ではなくなって、植物が支配する平和な緑の空間となっています。
このページの一番上の写真が示すように、森に取り囲まれた高台となっていて、4月前半には桜の花の色が兜山の頂部を覆うことになります。
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