▲右手にある石垣が桝形
桝形とは、石垣・積み石で囲まれた土塁の一種で、桝の形をしている。
目的は、宿への道筋を突き当り路地にして、少なくとも2回は直角に曲がらないと、街道から宿駅にまっすぐ進入できないように迂回させるためだった。
城下町の道路もそうなっていた。
このことは、宿駅制度が確立したときに、街道と宿駅が重要な軍事施設だったことを物語っている。
■街道と宿駅は兵站制度だった■
峠越えの道を狭いままにしたのも、テクノロジーの制約からだけでなく、軍事上の必要からだった。狭い道では、軍隊の移動は大変に手間がかかるから。
宿駅には「陣屋」とか「本陣」という名称の旅客施設があることからもわかるように、もともとは街道は軍用道路であり、宿駅は軍略上の物資や人員を輸送するための兵站・補給の仕組みでした。
それゆえ、戦国時代からは、天下の覇者たろうとする者たちは、主要街道を掌握し、宿駅の運営を統制しようとしたのです。
本陣もまた、戦国期の太守や領主たちの出兵・遠征のための野営・宿泊施設から発足したのです。そこには、武将や帷幕参謀たち(本陣のスタッフ)が宿営しました。
そのために、宿駅の本陣には幕末まで、寝所の近くに将兵たちの武器(槍や刀剣)の保管場所や軍馬の飼養施設の設置が義務づけられていました。
だから、本陣には武器倉庫と軍馬厩舎が敷設されていました。
やがて、「徳川の平和」が続いても、この制度はそのまま維持されました。参覲交代のときに、常用の刀剣以外の武器(鉄砲や薙刀、大槍)などは武器庫に保管され、馬は厩舎につながれて宿の係りの世話を受けました。
■街道を握るものは天下を握る■
戦争では通常、食料や武器弾薬、宿営設備など兵站・補給活動のために、戦場で戦闘を担う人員の10倍以上の人員が活動しなければならなりませんでした。
ことに遠征のためには、とてつもなく長く延びた兵站・補給線に沿って物資や人員を輸送するために、非常に大がかりな軍政・統治組織が必要となったのです。
ところが、街道宿駅制度を確立すると、たとえば京や尾張から信濃や武蔵まで、一定の時間を見込めば、ある程度の軍事物資や人員を通常の街道宿駅の運用の範囲で輸送することが可能となります。
これは、街道を掌握した有力大名にものすごく大きな戦略上・戦術上の優位をもたらすことになります。
そこで、豊臣家や徳川家は天下の覇を狙いうる地位を得るや、ただちに中山道や木曾路を戦略上の重要な仕組みとして掌握し、整備していったのです。
そういう伝統があったからこそ、幕府は大名藩主たちに軍事的遠征の装いを模した「参覲交代」を命じたのでしょう。藩主たちは、軍旅のための軽装備で大勢の将兵を引き連れて江戸まで「軍事パレード」をおこないました。ちょっとした戦争ほどの莫大な費用がかかりました。
主要街道ではつねにどこかの大名の軍事行進がおこなわれていたので、江戸時代の日本の主要街道の周囲では平和と安全が保たれることになりました。
■幕末の宿駅制度の危機■
妻籠宿の風景
ところが、平和が続くと、宿場にとっては、兵站制度としての「いかめしい本陣」を維持したり、幕府役人や大名が通行するたびに多様なサーヴィスを提供したりするのは、おそろしく重い負担となります。
幕末には、宿駅には莫大な借金が累積していたということです。もはや、戦国末期から維持してきた軍制上の仕組みを維持することはできなくなりました。街道の宿駅制度の破綻の危機は、そのまま幕府の統治の危機になりました。
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