上問屋史料館
奈良井宿に2件あった問屋の1つで、今でも現存している。ここで、宿駅の問屋場の業務が営まれていた。
■問屋場と人馬会所の任務■
宿駅制度では、それぞれの宿駅は、幕府や諸藩の公用旅行者に役立てるために、次の宿駅まで輸送手段としての人馬の手配と継ぎ立て(交替や引継ぎの管理)をおこなっていました。これが、いわば宿駅の「管区」でした。
このような業務の管理事務所が問屋場で、用向きの受付窓口、現場業務をおこなう場所が人馬会所でした。
経営者としての問屋と補佐役としての年寄たちは、幕府や公用の用向きの通知を事前に受けて、必要な人馬の手配をおこないました。
けれども、諸藩の参覲や、幕府からの用命による幕閣会議や評定、防衛軍務(たとえば幕末、外国船への備えの海防など)のための出動の場合には、当然、たいへんに大人数の通行となります。そのため、通常の宿駅での人馬の備えでは間に合わなくなります。
そんな場合に周辺の村落からの支援が必要になる。この支援態勢や支援する郷村(人員)を助郷と呼んでいました。助郷は、いわば賦役による納税なので、各郷村の経済力(石高換算)に応じて割り当てられていました。
問屋や年寄たちは、こういう場合の所要人馬の数量や必要経費(糧食や手当て)を見積もり、財源を手配し、前もって周辺の村落への通知や人馬調達の手配をおこないました。
■幕府からの財政給付と統制■
妻籠の脇本陣、奥谷家は問屋場を兼ねていたという
通常の財政ではまかなえないような大がかりな旅客通行や運搬、たとえば緊急時の尾張藩主の江戸出府などでは、通常の人馬や助郷の労力だけでは不足します。
そこで、問屋たちは福島宿の代官、村山家をつうじて幕府の道中奉行に費用の給付を願い出ました。
財源の見通しをつけてから、通常の助郷のほかに、近隣集落から特別手当と引き換えに人馬を集めました。
そして、毎年の街道全宿駅の事業記録・会計帳簿は村山代官に提出され、さらに道中奉行によって決算の吟味や査定を受けていました。
幕府はこのようにして、職分=身分としての宿駅の問屋や年寄たちの自立的な自治=経営活動に依存して、間接的に、経済的装置でもあり政治的・軍事的装置でもある街道制度の運用・運営を統制したのです。
その意味では、問屋や年寄たちは、当時、非常に複雑な行政管区の統治と経営機構を運営するすぐれた行政官であり、経営者階級だったわけです。
彼らは、幕府や領主に対しては、宿駅と近隣農村の民衆を代表して彼らの利害を主張し、民衆に対しては幕府や藩の統治情報を伝達する役割を担っていたのです。
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