浄土真宗の倉科片雄山 西敬寺は、飯山駅の真北、道のりで800メートルほどのところにあります。ツルヤの前の道路を真北に向かって歩いて、JR飯山線の踏切を渡ったところが境内です。
茅葺の山門と鋭く天に衝き立っている本堂の屋根が、この寺の目印です――鐘楼も本堂ももともとは茅葺ですが、今では金属板を葺いてあります。
さて説明板によると、西敬寺は、親鸞の弟子だった釈善巧によって鎌倉時代の半ばの1255年、「杏の里」の近くの千曲市倉科に創建されたそうです。その後、中野市牛出、飯山町深沢と移り、1672年に現在地に移転したとか。
釈善巧は、もと下総出身の地頭、岩倉刑部親経でした。親鸞が流罪で越後に旅した途中、善光寺に参拝したときに弟子になったようです。鎌倉幕府は、小領主である地頭たちを元の領地から移封・転封して各地の統治にあたらせましたから、親経も幕府の命令で埴科郡に赴いたのかもしれません。
それにしても、寺院を開基するには、相当の権力と財力がなければできませんから、倉科の地頭領主だったのでしょう。寺院が中野や飯山に移設されたのは、親経あるいはその後の倉科の地頭領主が、鎌倉幕府とか室町期の守護大名あるいは戦国大名の威勢下で中野や飯山に移封・転封したために、菩提寺を移したからだったのではないかと想像できます。
この地に来てから現本堂は、2回の火災で焼失し、1780年に再建されましたが、その後、善光寺地震で傷み、修復の際、屋根の形式を入母屋造から寄棟造に変更されたようです。
ところで戦国時代、飯山は、上杉謙信と武田信玄の勢力がぶつかる境界線で、勢力範囲の変化に応じて目まぐるしくその帰属が変わりました。そのため、この寺には両方の戦国大名に由来する文物が残されているのだとか。
その一つ、上杉謙信より拝領の小仏は、川中島合戦の際、謙信が敵に追われて綱切の渡しを無事に渡った時に、渡守りにお礼として渡されたいという伝承のあるもので、近くの安田村の檀家より奉納されたものだといいます。
また、長野県の県宝となっている所蔵の聖徳太子像は、釈善巧が親鸞聖人の弟子となった記念につくらせたものと言われています。上杉勢と対峙するため、この地に布陣した武田信玄は、この寺の方角から差す光をたどって太子像に出会い、その後、しばしば信玄の身代わりとなって戦場に運ばれ、そのため、像のあちこちに矢傷や刀傷ができたという伝説があります。
|