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長野県飯山市飯山上倉
丘の上の端正な禅庵  To put your mouse on the words "Summary in English", articles in English come out.

■映画『阿弥陀堂だより』の舞台■

  飯山市がロケ地となった映画『阿弥陀堂だより』のなかで、主人公の上田孝夫が恩師の幸田老人宅を訪ねるシーンがいくつかあります。胃癌で死期が迫っている幸田老人は、間もなく訪れるはずの自らの死を泰然自若として受け入れながら、妻とともに茅葺の古民家に暮らしています。
  そのシーンをDVDで見たとき、あれは飯山市の正受庵だと気がつきました。そして、ぜひ行ってみようと思い立って行ってみたのが10月20日(2016年)。飯山市では市街に西側の山手から紅葉が始まっていました。
  そして、11月12日に再訪しました。紅葉・黄葉はこの3週間で一段と進みました。飯山市は、信州でも晩秋の紅葉が美しいところのひとつです。まもなく雪のシーズンがやって来ます。


▲春の午後の陽射しを浴びる正受庵

  翌年の5月はじめに3度目の取材に訪れました。雪深く春の訪れの遅い飯山ですが、温暖化で花と若葉の季節がずい分と早まりました。それでも、正受庵がある飯山市上倉の丘はヤマブキの花が繚乱の盛りでした。


▲東からの案へののぼり道。ヤマブキの花が咲き誇っている。

Summary in English Shojuan, a Zen-Hermitage on the Hill

Shojuan is the main hall of a Zen-temple in Iiyama City.
It was originally built 1776 by Dokyo-Etan, a Zen priest, who was an illegitimate sun of Sanada Nobuyuki, the clan lord of Matsushiro. Etan was born and grew in Iiyama Castle.
He was a very clever boy and good at the martial arts and Kenjutsu. But he hoped to be a priest at the age of 16. Three years later he got into the Zen priesthood in Edo.
Thereafter he was travelling for Zen training around country for three years.
After returning to Edo, he was training under the supervision of his Zen master Bunan until 35 years old, when the master died. Then he got back to home town Iiyama and continued Zen training there until he died.
He built his hermit-cell near Iiyama Castle. As he called himself Oldman Shoju, it became called Shojuan later. The word “An” means the hemitage in Japanese. His successor founded a Zen temple of Rinzai school, but it got wasted in time and became abolished in the early Meiji era.
About forty years later, some famous literary men, Yamaoka Tesshu and Takahashi Deishu or so, began a movement restoring Shojuan temple and 1941 it was refounded in the shape that we see nowadays.

■高台の禅寺■

  臨済宗の正受禅庵は飯山上倉の山麓にあります。JR飯山駅から北におよそ1キロメートルの距離にあって、庵の裏山には飯山ジャンプ場シャンツェがあります。


▲石段の上が境内で右手は茶室

▲参道は正受庵の裏手に出る

◆正受庵の来歴◆

  正受庵は、今からだいたい330年昔の1776年、自ら正受老人と称していた恵端禅師が晩年に禅修行のために住み暮らした禅庵です。
  彼は、松代藩主の真田信之の庶子で、飯山城で生まれ育ったのだとか。才気煥発な少年で、16歳にして兵法や武術を極め、飯山藩でも飛び抜けた剣術家だったと伝えられています。
  自らの境遇を慮ってか、16世の頃から出家得度を望むようになり、19歳のとき藩主の江戸出府に随行したときに、江戸各所の禅寺を訪ね歩き、出家得度を果たしたのだとか。
  翌年から3年間、諸国をめぐる禅修行の旅を続けたそうです。 その後、師である無難禅寺から江戸の禅道場の住職に推挙されたのですが、若輩だとして固辞して故郷の飯山に帰還しました。
  しかし、再び江戸の禅寺のもとに戻って、35歳まで修行を続けました。
  その年、無難禅寺が死去したことから、飯山に帰郷してこの地を終生の修行の地とし、晩年まで禅修行に明け暮れたようです。その禅庵は飯山藩主の帰依を受けましたが、大がかりな寄進を固辞して、質素な生活を続けたのだとか。


▲室内の様子

▲縁側の南端の釣り鐘

◆荒廃と復興◆

  しかし、その後、正受庵は衰微荒廃し、明治7年には廃仏毀釈の風潮のなかで廃寺となってしまいました。
  ところがその後、山岡鉄舟や高橋泥舟らが正受庵復興の運動を進めたことから、臨済宗の禅僧らの協力を得て、1941年には復興され、今日のような寺院の形になったのです。

交通アクセス:
クルマで行く場合……上信越道の豊田飯山インターを降りて西回り線を北上すると、飯山シャンツェ(ジャンプ台)の手前右側に正受庵の駐車場があります。
鉄道を利用する場合・・・飯山駅で降車後、以下のグーグルマップを参考にしてください。


▲4月末、雪解けの後で

▲春の陽を浴びる縁側。庵の紋は六文銭。


飯山市では10月半ばに庭木の雪吊りを準備する

丘の上の禅庵を見上げる

丘にのぼる参道は大ケヤキの根元から始まる

境内西端にある正受庵の禅堂

入母屋造の庫裏

境内庭園では紅葉が始まっている
池も錦繡に包まれる

3月には境内はまだ深い雪のなかにある

雪に取り巻かれた正受禅庵
花頭窓の小さな鐘楼

高台境内の端から飯山市街を見渡す

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境内案内絵図

 
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