臨済宗の正受禅庵は飯山上倉の山麓にあります。JR飯山駅から北におよそ1キロメートルの距離にあって、庵の裏山には飯山ジャンプ場シャンツェがあります。
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▲石段の上が境内で右手は茶室
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▲参道は正受庵の裏手に出る
◆正受庵の来歴◆
正受庵は、今からだいたい330年昔の1776年、自ら正受老人と称していた恵端禅師が晩年に禅修行のために住み暮らした禅庵です。
彼は、松代藩主の真田信之の庶子で、飯山城で生まれ育ったのだとか。才気煥発な少年で、16歳にして兵法や武術を極め、飯山藩でも飛び抜けた剣術家だったと伝えられています。
自らの境遇を慮ってか、16世の頃から出家得度を望むようになり、19歳のとき藩主の江戸出府に随行したときに、江戸各所の禅寺を訪ね歩き、出家得度を果たしたのだとか。
翌年から3年間、諸国をめぐる禅修行の旅を続けたそうです。 その後、師である無難禅寺から江戸の禅道場の住職に推挙されたのですが、若輩だとして固辞して故郷の飯山に帰還しました。
しかし、再び江戸の禅寺のもとに戻って、35歳まで修行を続けました。
その年、無難禅寺が死去したことから、飯山に帰郷してこの地を終生の修行の地とし、晩年まで禅修行に明け暮れたようです。その禅庵は飯山藩主の帰依を受けましたが、大がかりな寄進を固辞して、質素な生活を続けたのだとか。
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▲室内の様子
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▲縁側の南端の釣り鐘
◆荒廃と復興◆
しかし、その後、正受庵は衰微荒廃し、明治7年には廃仏毀釈の風潮のなかで廃寺となってしまいました。
ところがその後、山岡鉄舟や高橋泥舟らが正受庵復興の運動を進めたことから、臨済宗の禅僧らの協力を得て、1941年には復興され、今日のような寺院の形になったのです。
交通アクセス:
クルマで行く場合……上信越道の豊田飯山インターを降りて西回り線を北上すると、飯山シャンツェ(ジャンプ台)の手前右側に正受庵の駐車場があります。
鉄道を利用する場合・・・飯山駅で降車後、以下のグーグルマップを参考にしてください。
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▲4月末、雪解けの後で
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▲春の陽を浴びる縁側。庵の紋は六文銭。
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