今、龍岡城跡の大半は田口小学校になっています。土塁や稜堡跡は、元気な小学生たちの遊び場や学び舎になっています。
龍岡陣屋は五稜郭ですが、軍事史上の呼び名は稜堡築城です。16世紀以降のヨーロッパで大砲や銃(火縄銃やマスケット銃)が開発され、攻城兵器として導入されるようになった状況に合わせて開発された城塞構築の手法です。。
▲五稜郭であいの館
 ▲であいの館内の築城模型
斜面や石垣をともなう菱の葉のような形の土塁・堡塁を外側に突出させ、そこに大砲や銃を配置し、その周囲を濠で囲繞して、火砲を用いて城郭に攻め寄せる敵を迎撃するように陣地が構築されているのです。塹壕で近づく敵に対しても死角をなくし、十字砲火できるようにしてあります。
日本固有の城郭では石垣をジグザグにした「横矢掛」を設置しましたが、稜堡は火砲列設置のためにそれを極端化したものだともいえます。
五稜郭のほぼ5分の1くらいに小さな規模であることから、龍岡の五稜郭はかなり日本風にアレインジされ、簡略化されています。戦役利用を考えなかったので、本格的な砲台列や砲座列は設けられなかったようです。
幕末の政変や明治維新が始まってから築城が開始されましたが、竣工まもなく明治政府の方針で廃城化されました。ところが、人びとの配慮や努力で、いまでも稜堡構造は半分ほど原型をとどめているのです。
 ▲御台所櫓
城郭内では御台所櫓が元の場所から反対側に移設され、今では学校施設として利用されています。
城郭を内側から見てみると、稜堡の縁は1.5〜2メートルほど盛り上げた土塁(土手)になって星形に陣屋を取り囲んでいます。そこには今桜が植えられて見事な並木になっています。
 ▲内側から見た堡塁
ここはいったんは廃城となり、濠が埋められ、田畑に取り囲まれてしまった時期もあったようです。 |