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長野県佐久市臼田田口
 
龍岡城五稜郭  

  佐久市臼田田口地区には、新海三社神社だけでなく、史跡や名刹などの観光名所がいくつもあります。
  稜堡型築城というのは、16世紀以降のヨーロッパで大砲や火縄銃・マスケット銃など総じて攻城兵器としての火砲が開発され戦争に投入されるようになったことから、開発された城郭陣地の構築手法です。⇒ヨーロッパの軍事革命と稜堡型築城について

龍岡城址01

▲一番北側の稜堡 濠に囲まれている▲
  1863年、三河国奥殿藩の藩主・松平乗謨のりかたは、分領である信濃国佐久郡への藩庁移転と陣屋新築の許可を江戸幕府から得て、翌年から城郭建設に取りかかりました。その頃、この一帯は田野口(田の口)と呼ばれていました。陣屋城塞(本体)としての縄張りは五稜郭と濠で囲まれた範囲ですが、城の北方に桝形があることから、少なくとも五稜郭の周囲200〜300メートルの範囲が惣構え(総構え)をなしていたように思えます。

■学び舎となっている城址■

  今、龍岡城跡の大半は田口小学校になっています。土塁や稜堡跡は、元気な小学生たちの遊び場や学び舎になっています。
  龍岡陣屋は五稜郭ですが、軍事史上の呼び名は稜堡築城です。16世紀以降のヨーロッパで大砲や銃(火縄銃やマスケット銃)が開発され、攻城兵器として導入されるようになった状況に合わせて開発された城塞構築の手法です。。

▲五稜郭であいの館

▲であいの館内の築城模型

  斜面や石垣をともなう菱の葉のような形の土塁・堡塁を外側に突出させ、そこに大砲や銃を配置し、その周囲を濠で囲繞して、火砲を用いて城郭に攻め寄せる敵を迎撃するように陣地が構築されているのです。塹壕で近づく敵に対しても死角をなくし、十字砲火クロスファイアできるようにしてあります。
  日本固有の城郭では石垣をジグザグにした「横矢掛」を設置しましたが、稜堡は火砲列設置のためにそれを極端化したものだともいえます。
  五稜郭のほぼ5分の1くらいに小さな規模であることから、龍岡の五稜郭はかなり日本風にアレインジされ、簡略化されています。戦役利用を考えなかったので、本格的な砲台列や砲座列は設けられなかったようです。
  幕末の政変や明治維新が始まってから築城が開始されましたが、竣工まもなく明治政府の方針で廃城化されました。ところが、人びとの配慮や努力で、いまでも稜堡構造は半分ほど原型をとどめているのです。


▲御台所櫓

  城郭内では御台所櫓が元の場所から反対側に移設され、今では学校施設として利用されています。
  城郭を内側から見てみると、稜堡の縁は1.5〜2メートルほど盛り上げた土塁(土手)になって星形に陣屋を取り囲んでいます。そこには今桜が植えられて見事な並木になっています。


▲内側から見た堡塁

  ここはいったんは廃城となり、濠が埋められ、田畑に取り囲まれてしまった時期もあったようです。
稜堡土塁には桜が植えられ並木となっている

稜堡の付け根はすぼまっている

入口はいくつもあるが、これが表門
城郭の北端にある田口招魂社

木橋上から

北側の濠
濠の形がほかと異なるので、本来はここに桝形や馬出がある構造だったのかもしれない。

南端の稜堡と濠
北西側はプールや畑と隣接

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