◆古い由緒◆
▲参道石段の途中で振り返ると、朱鳥居の向こうに藪原の街を見おろす
神社創建の当初は、熊野社と称して縣坂――現在の鳥居峠――の山頂(峠山山頂)にあったようですが、鎌倉時代初期の建久年間(1192年)に縣坂十王へ遷座され、さらに戦国時代の永正年間(1511年)に現在地に再遷座したそうです。縣坂十王というのは、峠山の南西側の中腹(天降社の上方辺りか)だと思われますので、神社は時代追って山頂部からしだいに藪原宿に近づいてきたということのようです。
明治維新時に神仏分離や廃仏毀釈運動の影響を受けていますが、イザナギ、イザナミ、スサノオという大和王権側の神々と仏教思想の影響で権現となった熊野社とが合祀されてきたわけで、その意味では神仏習合の伝統を相当程度に保っている神社と見ることができるでしょう。
これはこの神社に限ったことではなく、山や森、海や河川などのあらゆる自然のなかに神(八百万の神)を見出す日本人の始原的で素朴な汎神論信仰の前に、国家神道の権威を貫こうとした明治政権の意図は半ば挫かれ中途半端に終わったようです。境内には、上記の4神のほかに天神様、稲荷社、出雲社、八坂社、山祇社、誓社など数えきれないほどの神々が祀られています。
木曾を含む中山道沿いの諸地方では、討幕運動が盛んだったところに戊辰戦争での「官軍東征」の影響からか、民衆による廃仏毀釈運動が過激化したのですが、そういう木曾路の藪原でさえも神仏習合と汎神論信仰の伝統はしぶとく生き残ったのです。
▲拝殿下にある端正な造りの社務所
◆木曾山林中の神社◆
長く神仏習合の伝統のなかにあったとはいえ、現在に残されている神社と寺院とを比べると、神社の方が「文明」以前の始原的というか原基的な自然との結びつき(自然信仰・自然崇拝の趣き)が強いと感じられます――それは、明治初期に密教修験場についてより徹底的な神仏分離・廃仏毀釈がおこなわれたせいかもしれません――。藪原神社について、その思いを深くしました。
▲拝殿の内部 この奥の本殿がある
さて、道路に面する赤い大鳥居(西向き)をくぐると緩やかに曲がった石段参道をのぼることになります。進ごとに参道を取り巻く山林は深くなり、神域に入ったという感覚が強まります。
参道は緩やかに北に曲がって手水舎の前を通り、奥の大鳥居(石造りで南向き)に導きます。大鳥居の奥に社務所と拝殿・本殿があります。
山腹にある境内は棚田のように立体的で、拝殿・本殿はひとつ上の壇上に配置され、山腹斜面伝いの石段参道をそのままのぼるか、端正な造りの社務所の正面の急な石段をのぼって参拝することになります。
拝殿と本殿は一続きの建物ですが、大きな神明宮造りの本殿蓋殿の棟側に入母屋破風を向拝のように接合した形状で、いわば神明社風と明神社風の折衷様式となっています。
蓋殿の向かって右側(南側)には、長い脇拝殿がつながっていて、山祇社や八坂社、出雲社、誓社などの小さな祠が並列安置されています。
脇拝殿の先には天神社が置かれていて、脇拝殿と天神社のあいだには、朱い鳥居の列が山腹(東向き)に向かって並んでいて、その奥の石段上に稲荷社の祠が置かれています。
というしだいで、山腹にへばりつくような境内は、社務所がある壇の上に拝殿・本殿の壇が築かれ、さらにその上の壇に稲荷社が配置されるという構造になっています。
▲朱鳥居の列の奥には稲荷社の祠
藪原神社と極楽寺は、峠山から南に延びる尾根の西斜面の裾近くに並んでいます。境内はほとんど一体化しています。江戸時代には神仏習合でしたから、通路と境内は融合していたはずです。
これらの境内の裏手(西側)には南北に通る山道があって、裏山の遊歩道となっています。また神社の裏手から国道19号に連絡する舗装した小径があります。
▲神社の裏を抜ける細い山道
藪原神社と極楽寺が位置する尾根の地形や地理情報について知りたい人は、⇒以下の文字列にマウスオンしてください
⇒藪原神社をめぐる地形に関する説明
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