▲鳥居トンネルの藪原側の出入り口
▲線路は尾根を回り込んで藪原駅に下っていく
藪原の街並みの湯川酒造店の近くで東に曲がると、鉄道高架の下を往く小径につながります。小径は、藪原神社の境内がある高台を支える崖にぶつかり、――明治以降に急斜面の尾根裾を切通して建設した――南北に走る小径にぶつかります。南に進めば、藪原神社と極楽寺の門前に出ます。私はふたたび北に向かいます。
▲鉄道高架のの小径。坂の上には藪原神社の大鳥居や極楽寺の山門が並ぶ。
藪原の街から鳥居峠の登り口までクルマでいくなら、この道を通ることになりますが、急な坂道でクルマどうしのすれ違いは困難です。歩きで行くことをおススメします。
藪原街の周囲はほとんどが山林です。そして木曾地域は年間を通じて降水量が多いところです。
そういうわけで、水資源に恵まれたところで、山腹、山裾のいたるところから清冽な水が湧き出し流れ出ています。水は集まって浸食作用を起こして谷をつくります。どんな小さな谷間にも湧き水があって、沢を生み出しています。
鳥居峠に向かってのぼっていく坂道沿いにも小さな谷がありますが、やはり谷底には沢が流れ下っています。これらは往時、宿場街に引き込まれて宿場用水として利用されていたようです。用水は宿場内の水路を一巡したのちに、水田や木曾川に放流されていたようです。
▲山腹から流れ出る清水
◆飛騨街道追分◆
新道の坂道を歩き出して間もなく飛騨街道追分の跡に出会います。往時、中仙道はここで、奈川や野麦峠まで連絡する飛騨街道と分岐しました。野麦峠は奈川の南西にある山岳で、飛騨高山と松本を結ぶ街道(野麦街道)の難所でした。飛騨街道は現在、県道26号とほぼ重なる経路だったようです。
飛騨街道とは、飛騨高山から野麦峠を経て奈川の南で経路を南東に転じて藪原まで続く街道のことです。奈川から北東に向かい松本、塩尻まで連絡する道が野麦街道です。
◆鷹匠屋敷跡◆
さて、追分のすぐ先には街道の西脇、南西に突き出した尾根の端に尾張藩鷹匠役所跡があります。説明板によると、鷹匠屋敷ははじめは妻籠にありましたが、野性味あふれた鷹を捕獲飼育するために藪原に移転したそうです。
鷹狩り用の鷹は、鷹巣を見つけて幼鳥(雛)を捕獲して狩り用に飼育するのですが、鷹匠とは藩主に直属して鷹の捕獲と飼育訓練、藩主の鷹狩りの采配、御狩場の管理を統括する有力な組織(役所)でした。役所を束ねるのは鷹匠頭で、いわば特別の軍政上の名誉職でした。
鷹匠役所で捕獲された鷹幼鳥は、しばらく馴致された後に尾張城下近くの林野や鷹匠屋敷に移されて鷹匠とのコミュニケイションや狩猟の訓練を施され、やがて藩主の鷹狩りに出場することになります。狩場と呼ばれる林野でおこなわれる鷹狩りでは、多数の藩士たちを動員してウサギやキジ、ウズラなどを追い込み鷹で狩猟するのですが、藩主親臨ないし指揮下での野戦訓練や哨戒・行軍調練として格別の意味を与えられていました。
それゆえ藩主の傍らで鷹狩りを統率する鷹匠は、藩主直属の武門の高官としての位置づけ(名誉)を与えられていて、これは戦国時代から有能・有力な武将が鷹匠を兼ねて領主の帷幕に近習するという慣例を踏襲したものです。
▲鷹匠役所跡からの藪原の展望
◆急坂の街道をのぼる◆
峠の入り口までの街道では鷹匠役所の前が一番の急坂です。ここから消防署北分署までは旧街道は勾配が均され拡幅されていますが、江戸時代には起伏が激しい杣道だったと思われます。
旧街道が急傾斜の尾根や谷を登る道であるを示すため、右に、JRの線路や木曾川が崖下に隠れているように見える2枚写真を掲げました。
ヒノキの森で始まる峠への登り口まで、あとわずかです。
ところで、旧街道は消防署の傍らで奥木曾湖(ダム湖)に向かう幅広の道路と交差します。その道路に沿って街道を外れて600メートルほど北に進むと、大きな貯木場があります。ヒノキやサワラ、ミズナラなど山林から伐採してきた太い木材が山と積まれています。
▲藪原の貯木場
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