◆室町末期の開基◆
▲三門の屋根は元は杮葺きだったらしいが、現在は金属板で覆われている。
室町末期、この地の領主古畑氏は禅僧茂林を招いて禅寺を開基したのだとか。そのときの寺号は大龍山禅林寺でした。境内は、木曾川西岸の倉籠――現在の木祖小学校の近く――というところにあったそうです。⇒地形絵図
ところが、堰堤や護岸など、さしたる治水技術がなかった時代、暴れ川の木曾川は頻繁に氾濫し、寺は何度も流失の難に遭遇しました。そのため、対岸の藪原宿上町裏に移設され、そのときに現在の山号「法城山」に改めたそうです。
この山号は、現在、本堂の正面軒下の扁額として掲げられています。「法城」とは「その地に仏法が堅固に保たれていて、堅城のごとく安定している」という意味です。そこには、河畔の低地から水難のおよばない宿場内の地に移って、寺の基盤が安定するという願いが込められていたのかもしれません。
しかし、寛文年間(1662年)に宿場の火災で寺の堂宇や文物が焼失してしまい、その2年後に中町裏に移設再建されました。そしてさらに25年後に宿場の本陣寺島家の土地寄進を受けて現在地に移転し、その2年後(元禄年間の1691年)に堂宇が再建されたのだそうです。現存の本堂は、そのときに建立されたもので、1642年に改修されたのだそうです。
▲庫裏側の玄関
◆明治以降のできごと◆
明治のはじめ(1873年)には境内に藪原学校が置かれました。木曾地域では、明治期に学制が発足した頃、寺院施設の多くが初等教育学校として利用されました。
その後、明治後半から大正期にかけて、短歌アララギ派の歌人たちが藪原の旅館や湯川酒造に集まって遊山したおりに、極楽寺にも立ち寄って歌会や談論の場としたそうです。
極楽寺の観音堂には、そのときのアララギ派歌人たちの絵画が残っていて、ことに格天井の絵画は藤田嗣治(レオナール・フジタ)が制作担当したのだとか。
▲大きなヒノキの傍らの鐘楼
◆現在の境内の様子◆
南北に細長い境内の西寄りには石碑や多くの地蔵像が並んでいます。なかでも持ち上げ台座の上にある子安地蔵は変わっていて、片膝を立てた輪王座姿勢ですが、片手は台座に置かずに両手で乳幼児を抱いています。力強いお爺さんが孫を抱くように、幼児を慈しむ姿が印象的です。
観音堂の前には「鳥獣之魂」の慰霊碑が立っています。信州各地のいたるところに、人の暮らしに役立った馬の慰霊をおこなう馬頭観音は無数にありますが、鳥獣全体の慰霊鎮魂の碑大変に珍しいものです。ここは山岳地帯なので、益鳥や益獣だけでなく、狩猟でとして捕らえ食用・皮革材に利用した鳥獣すべてを慰霊しているのかもしれません。
▲境内の背後に迫る山林を通る小径
極楽寺は藪原神社と隣接していて、往時は一体で極楽寺が神社の別当だったのかもしれません。
神社の神域を抜ける狭い山道は極楽寺の本堂は以後も通り抜けています。その山林の様子からすると、神社と寺はもともと一体不可分のものだったと実感します。
▲鉄道高架をくぐってから寺にのぼる小径
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