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長野県長野市
篠ノ井東福寺
 
  東福寺神社は、今から1200年以上も前に都市的な集落建設が始まったと見られる南宮遺跡の隣にあります。当時、大きなな神殿と東福寺という大寺院があったそうです。ここは、その衣鉢を継ぐ神社です。
  現在の社殿にいたる社は諏訪大社として、18世紀半ば頃までには建立されたものと見られます。
巻頭写真は、雪晴れの朝の境内と拝殿・社務所で、拝殿は諏訪大神系の特徴をもつ入母屋妻入造り。
 
神社の来歴を探る  


60年以上前の落雷火災を生き延びた大ケヤキ(神木)▲

  善光寺平の伝統的な風景は、村落ごとに鎮守の神社があって、神社の境内と鎮守の杜は、水田畑作地帯のなかに大海のなかの島のように浮かんで見えます。春から秋には樹林の枝葉が生い茂って、境内は薄暗くなります。真夏には強い陽射しと根っ暑熱を遮ってくれて、神域には田園の風が吹き抜けて、涼やかでありがたい空間となります。このような神社の鎮守の杜を社叢と呼びます。

  善光寺平にある村社の社叢の規模としては、東福寺神社は横田神社、小松原伊勢神社、更級斗女神社などと並んでトップクラスです。そして、均斉の取れた四辺形の帯の形状をなして境内神域を取り囲んでいるのは、ただ東福寺神社だけです。私たち地元住民は、境内神域を取り囲む樹林の「均整の取れた美しさ」――このような形で社叢を保存してきたことを――を胸のなかで誇りにしています。


▲長野南運動公園の南に隣接する東福寺神社の社叢(鎮守の杜)と社殿群

  とはいえ、樹々が枝葉を成長繁茂させて社叢が鬱蒼とする季節には境内は薄暗くなるので、私のような素人には写真撮影が難しい場所でもあります。で、真冬の午前中に神社を撮影してみました。ところが、厳冬季の澄み切った大気のなかに射し込んでくる陽光は、まぶしいほどに強く、逆光気味になってかえって撮影は難しくなりました。ただし、私の目にはあらゆるものの輪郭はすこぶる明確になります――人間の目はよくできています。しかし、カメラの操作が難しくなりました。


▲南運動公園の南隣にあって、神社があたかもUスタジアムを護り、率いているようだ。凛然と存在する大鳥居と社叢。


▲境内への入り口。大鳥居は西を向いて立っている


▲社号の扁額を掲げる諏訪明神方式の大鳥居


▲4月は桃の花の季節。あいにくの花曇り。桃花に囲まれる社叢。


▲春には長野パルセイロの必勝祈願祭でにぎわった

▲参拝者の正面が拝殿で、妻入の入母屋造り。左隣が社務所。


▲推定樹齢600年以上の大ケヤキ。落雷火災からよみがえった神木。


▲夕陽を背景に中央が拝殿、右奥が本殿蓋殿。左奥は社務所。
 神社の神域境内の面積はおよそ2000uと広く、社叢は整った長方形をなしている。拝殿は江戸末期の建築で、社務所は鹿島社の拝殿を移築したものだという。


▲境内摂社:左から養蚕社と向きが異なる2基の秋葉社


▲境内北東端に並ぶ庚申塔や石神・石仏群
 境内にある末社摂社の石神や庚申塔などの石塔石仏は、1907年の祠堂合祀令に沿って、または耕地整理、道路整備のさいにここに移転されたと見られる。なかには青面金剛明王とされる石仏もあるが、北国街道松代道の福島宿や神代宿では、ほぼ同じ形状で馬頭観音として祀られているものもある。


▲桃園から眺めるオリンピックスタジアム。地下に南軍遺跡が眠る。

■東福寺神社の来歴■

  この神社の江戸時代以前の歴史や由緒はほとんどわかりませんが、神社の境内北端に立つ説明板によると、
  明治40年(1907年)の中央政府内務省訓令、祠堂合祀令にもとづき翌年4月、東福寺各組(地区)の氏子総代会を開いて協議し、南宮社、池田社、鹿島社、諏訪社の4社を中組地区の村社であった池田社境内に合併合祀して、東福寺神社と社号を改めることになったということです。


樹齢500年以上と見られる大ケヤキ

基本構造が江戸末期の建築と見られる社殿

  合祀されたそれぞれの神社の祭神について探ると、あらましこうなりそうです。
●南宮社は東福寺上組地区の村社で、祭神は健御名方(タケミナカタ/御名方とも表記)です。諏訪大神とも呼ばれます。ところが伝承によると、さらに古い時代から、南宮社には金山彦が祀られていたものと見られます。
●諏訪社は、さらに創建が古いものが上組北小森集落にあって、祭神は同じく健御名方だということです。
●上組にはまた古くから猿田彦神社が祀られていて、これも住民の尊崇篤い神様です。そして、神組のなかでも南宮遺跡との関係が最も深いと見られる北小森地区は、本来は独立の集落でしたが、明治以降に上組に併合されたようです。つまり、往古には固有の村社として南宮社を祀っていたのかもしれません。
●池田社は中組地区の村社で、ここでも祭神は健御名方だということです。
●鹿島社は下組(現東区)ならびに上庭地区の村社で、祭神は武甕槌神(タケミカヅチ)。国づくり神話では、国譲りに反発して荒ぶるタケミナカタを力技で抑え込んだ最強の武神だそうです。
  現在の東福寺神社の本殿には、健御名方を中心にしながら金山彦、猿田彦、武甕槌が祀られています。神社の来歴を示す史料はわずかで、以上のことしかわかりません。

  南宮というのは、南長野運動公園の地下に眠っていた古代遺跡で、埋蔵文化財の発掘調査で実在が確認されました。8世紀(奈良時代末期〜平安時代初期)から集落群の形成が始まって、10世紀には有力な豪族が広壮な居館を造営して、近隣の農村的集落とは異なる様相の都市的(祭政を担う)集落を直接統治していたと見られるのだとか。けれども、11世紀末までには忽然と消滅してしまったようです。
  その集落には補陀楽山観音院東福寺という天台の大寺院があって、豪族の居館敷地内には神社もあり、これが南宮社の起源になったようです。東福寺神社と南宮社という呼称は、その流れを受け継ぐものであると見られます。

  東福寺地区が松代藩の史料など歴史の表舞台にふたたび出現してくるのは、18世紀中葉です。その頃、松代藩の指導下で、氾濫を繰り返してきた千曲川の流路(河道)大改造と農業用水路の整備にともなって川中島の広大な湿地帯を干拓して肥沃な水田地帯を切り開く開拓と村落建設が本格的に始まったと見られます。農業用水路の建設は、犀川からおおむね南向きに流れ下る何百もの小河川を、南東向きまたは東向きの流路に変えて、この新たに開削した流水路に湿地帯の水を落として水田開拓を可能にしました。
  この時代に、下堰水系の基本構造が整備されたようです。村落建設を進めるにさいして、開発が先行していた小森村にならって各集落が諏訪大神を勧請して村落の鎮守社を興したと見られます。
  してみると、南宮遺跡にある豪族の居館や集落群の時代から18世紀中葉まで、東福寺にはおよそ600年近くの「歴史の空白」があるのです。しかし、この地に東福寺観音堂や南宮神社や金山彦、猿田彦、武甕槌(鹿島大神)の命脈が長く伝承されてきたことは間違いないようです。

  ところで、すでに鎌倉時代から室町時代にかけて、布施御厨や戸部御厨、杵淵を拠点として、小森村を先駆として、川中島湿地帯の高台や自然堤防の上に集落と水田を開く動きが始まっていました。そのさいに諏訪大社が鎮守社として創建されたとも見られます。18世紀半ばからの本格的に展開する開拓では、こうした古い社の再興、再建という形を取ったかもしれません。


境内の石仏:青面金剛明王あるいは馬頭観音

「夏越のおお祓い」のために設けられた茅の輪

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