残念ながら、今残されている上田城址の遺構と復元建築物は、真田家が築いたときのものではない。
関ヶ原の戦いで徳川家門が勝利し、真田昌幸と信繁(幸村)が与した豊臣家側が敗れたため、敗者側に対する徳川側の処分として上田城はとことん破壊され、堀はほとんど埋め立てられてしまった。
ところが、徳川幕藩体制が構築される過程で、上田は信州上田藩の藩庁所在地となり、仙石家が小諸藩から上田藩に移封されることになった。
藩主の仙石忠正は、藩庁として上田城を復元改修した。埋め立てられた堀を回復し、土塁の主要部と桝形虎口を石垣化し、2棟の隅櫓と7棟の二層櫓を築いて、近世江戸期にふさわしい「織豊系城郭」にした。
本丸には藩庁となる建物群を建築したけれども、天主は設けなかった――というよりも幕府は許可しなかった。忠正没後、城の再建は中断された。
仙石家は幕末に仕置不始末の理由で転封されてしまった。一方、上田城は明治以降に廃城となり、隅櫓は売却されたり破却されたりし、石垣や土塁は放置され続けた。
◆真田家のその後◆
戦国時代の末期、真田家は豊臣側と徳川側に2つ――昌幸と信繁は豊臣側、信之は徳川側に――分かれた。有能な信之は家康から厚遇され、本多忠勝の息女を家康の養女として妻合わされた。そして、沼田と上田を領する武将となった。
関ヶ原の戦のあと、信之の助命嘆願を徳川家は受け入れ、昌幸と信繁は九度山に流刑蟄居の処遇となった。けれども、信繁は大坂の役で豊臣派について討ち死にした。
その後、信之は松代藩主(当時13万石)となって上田を離れた。
徳川家康は、武田家の家臣だった真田武士団、すなわち地略と武略に富んだ勇猛果敢な朱備(赤い鎧をまとった)騎兵隊を高く評価し、幕府を興してから自らの直参旗本のなかに朱備えの騎兵団を組織したという。
江戸時代の講談で「真田ブランド」がつくられたのは、そういう背景もあってのことだろう。
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