◆真田神社◆
明治政府は自らの権威と正統性を誇示するために、幕藩体制期の建築や文化をむしろ疎外しようとした。
上田城も破却され建物のいくつかは売却された。しかし近代化が進むと、上田の人びとの多くが、真田家の歴史や上田城を自らの(この地方の)アイデンティティの拠り所として回復しようと考えた。
上田が蚕都として繁栄したこともあって、売却された櫓の買い戻しと再建とともに、真田家と歴代領主を祀る神社を城跡に建立して、成長する街のシンボルとした。それが真田神社だ。
◆真田井戸◆
神社の社殿の南脇には「真田井戸」がある。この井戸はじつは、ここから3キロメートル余り北にある太郎山の砦まで続く抜け穴なのだという。
万が一、敵側が城を完全に包囲したときには、太郎山の砦まで避難できるようになっていたという。また、砦から城内に物資を運び込む経路になるように考えられていた。
▲社殿の脇にある真田井戸
◆本丸の土塁と堀をめぐる◆
本丸を取り囲む土塁と堀はほぼ全部残されている。土塁の土固めと地盤補強のために土塁斜面には樹木が植えられている。その多くは桜で、春には本丸と堀は花で取り巻かれ、絶好の花見場所となる。
北櫓の脇からコの字型に反時計回りに土塁をめぐってみよう。
土塁と堀を回って感じるのは、これだけの傾斜で堀を仕切る土手が崩れることもなく、長い期間保たれていることだ。水面近くから下は、水による浸食を防ぐため、石垣で補強した鉢巻土居になっているのだろうと思う。
▲本丸北側の土塁と堀▼
江戸時代、仙石忠政は、本丸をコの字型に取り囲む土塁に合計4つの隅櫓を構築したそうです。本丸には合計7つの隅櫓があったということです。
土塁上の4つの隅櫓は、石垣を築かずに礎石を敷いて土塁に直に立てられたようです。
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