安曇野は信州でも最大の穀倉地帯です。しかし、それは江戸時代半ばに安曇野の農民たちが厳しい自然環境と格闘して拾ケ堰という灌漑用水を建設してはじめて実現したものです。
古来、安曇野は膨大な降水量の北アルプス山麓にありながら、砂礫土壌の扇状地であったため、人びとが農地開拓と耕作に用いる農業用水に欠乏していました。
▲豊かな水を湛えて流れる拾ケ堰:三郷~堀金地区。広い水路は舟運にも利用されたという。
1790年(寛政年間)、安曇野の柏原村、吉野村、上・下堀金村の庄屋たちが灌漑用水路の開削を計画し始めました。彼らはその40年前から安曇野の地形測量や用水路の設計を手がけていたのです。
各村での測量・開削などを進めながら相互に結集しながら、19世紀はじめには航海と水の神、琴平神宮を勧請し、松本藩への計画嘆願をおこない、用水建設と新田開発を進めました。
▲安曇野の沃野:広大な水田地帯が続く
本格的な用水路建設の着工は1814年からで、それからおよそ4年をかけて堰が開削されました。1849年には通船航路も開発され、当時、この水路は安曇野の各地を結ぶ運河としても利用され、直接の連結や陸路を介して犀川や穂高川とも連絡し、重要な物流経路となっていました。そのため、堰の幅が広く、つねに豊富な水を湛えるように設計されたのです。