▲社宮司神社の境内から願応寺を見おろす。右寺の下に見えるのは、鍛冶足集落で、和田峠は右手の彼方。
私の勝手な憶測ですが、和田郷鍛冶足にある願応寺と集会場とのあいだにある小径は、暴れ川の依田川が氾濫した場合の中山道臨時往還ではなかったでしょうか?。
大出から山裾沿いにこの小径につながっていたのではなかろうか、という発想です。
▲茅葺屋根の時代の願応寺
(出典:『和田村村誌』、下の地蔵尊も同じ)
なにしろ、室町時代には東山道が古峰山(城山)の北西側を通っていたこともあるくらいですから、より低い依田川沿いの中山道は洪水や土砂崩れの怖れがあったでしょう。
そうなると、中山道ももっと高い場所を通る臨時の道を備えていてもおかしくはありません。
この道ではないにしても、山裾を通る小径があったのではないかと考えられます。そうすると、かつて、鍛冶足の急斜面にある願応寺と社宮司神社の和田郷にとって持つ意味はかなり大きかったと推測できます。