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長野県木曽郡木曽町
 
  江戸時代に木曾路全域を管轄する山村代官所が置かれた福島宿は、筑摩郡木曾地方の中心地でした。中山道の関所も設けられていました。
  ここは、木曾川の峡谷のなかでもその支流の黒川や八沢川が合流するところで、複合扇状地に尾根や丘陵が入り組んだ広い谷間をなしています。
巻頭写真は、本町上の段の街並み。
 
福島宿の歴史と地理  

■福島宿本町上の段の街並み■


▲中山道沿いの七笑酒造(明治期の創業)

  木曾福島は明治以降も木曾谷の経済や行政の中心地であったため、高度経済成長の影響も大きく、その分街並みの「近代化」が進み、――残念ながら――古い街並みはわずかしか残されていません。それでも、懐かしい旧街道の面影を探すなら、中山道沿いに歩いて、本町上の段を歩くのがおススメです。
  散策上のランドマークは、明治期に創業した七笑酒造の古民家店舗で、それを過ぎて最初の辻を左(南)に曲がります。すると、高札場跡の広場があって、それは藪裏清水――「やぼら(やぶら)しみず」と読む――公園と呼ばれています。さらに南に進むと河岸段丘上にのぼる坂道となります。
  中山道は、外様の西国の有力藩主も参覲のために軽武装の家臣を引き連れて通るわけで、幕府との直属関係を維持していながら尾張徳川家支藩の城主のような地位にある山村家の城砦直下に宿泊することもあったのです。
  木曾福島は、木曾川が刻み込んだ深い谷に3本の大きな支流――黒川、八沢川、熊沢川――が流れ込んで形成した扇状地が複合した盆地をなしています。福島宿の街並みは、木曾川と八沢川に挟まれた河岸段丘上にあって、木曾川沿いに西進してきた中山道が南転して曲がりくねりながら、関山の尾根に連なる最上段段丘を越えて八沢川の谷間に下る道筋が中心となっていました。
  この街道宿駅の構造は、福島がまさに山村家の城下町であって、河川と段丘を利用した惣構えとして建設されたことを物語っています。つまり、宿場街の南北西を深い峡谷の河川で防御し、東に対しては起伏に富んだ街道に迫る尾根斜面と桝形で防備を施す、という造りなのです。
  山村代官屋敷は、本町と木曾川を挟んだ対岸の山裾――収益を見おろす位置――にあります。代官所脇には山村家家臣団の武家屋敷や徒士長屋などがあったはずで、それと関所とで挟む形で街道を監視していたのでしょう。


▲急な坂道を振り返る

▲上の段の高札場

◆上の段を歩く◆

  中山道は、ふたたび西に曲がりながら「上の段」と呼ばれる河岸段丘最上段にのぼっていきます。直角に近い道に屈曲と高低差で桝形のような防御結構を形づくっていたものと思われます。街道では桝形は本来、宿場の両端に設けられるものです。ところが福島では、惣構え城下町の桝形のような位置づけです。
  宿駅の本陣はここよりも東に150メートルほどの上町にあったのですが、本町も商業の中心部だったうえに山村代官の「城下町」の中枢――代官屋敷直下の街区――をなしていたため、軍事的防御の観点から屈曲した道なりになっているのでしょう。「本町」という名称から、ここに街道での貨物・旅客運搬の継立て業務を担う問屋や旅籠があったのかもしれません。
  上の段の街道沿いには、いまでも木曾路に特有の棟入様式の出梁造りの町家古民家が軒を連ねています。


▲木曾路の古民家町家の造りが明瞭

  上のグーグルマップからわかるように、中山道と宿場町は山村代官所と距離を置いて南下する経路になっています。宿駅としての本町街区も本陣も、代官屋敷とは谷を隔てて向き合う形になっています。
  それというのも、福島の街には関所が置かれ、幕府直轄地としての中山道を治める代官山村家がいわば城主のような――城主に準じる格付けで――振る舞っていたがゆえに、街が城下町でもあり宿駅でもあるという複雑な性格をもっていたからだと思われます。

  江戸時代、幕府は地方大名藩主の参覲の旅を義務づけました。大名は宿駅で本陣に宿泊するのですが、武家諸法度によって宿場を自らの軍旅の陣営として防御・警戒しなければなりませんでした。すなわち、本陣の周囲の警護や宿場の両端の桝形に番兵を配して警戒することを求められていました。
  ここでは、山村家の政治的・軍事的役目と参覲藩主の軍事的義務とが短時日ではあっても出会い交錯・対峙していたのです。街の構造には、そういう緊張感が漂っていたのでしょう。
  本町上の段の標高は代官屋敷よりも低いので、代官屋敷の内部構造――建物や人員の配置――を見ることはできません。城砦防衛上の機密は読み取られることはないのです。
  こういう独特の緊張関係をともなう街の構造は、城下町の街道で参覲藩主が通り宿泊する宿場によく見られます。たとえば、北国街道の小諸宿(小諸藩城下町)とか上田宿(上田藩城下町)がそうです。
  中山道が城砦のような山村代官屋敷に近い木曽川河畔の道筋――当時すでに街路と街並みがあった――を外れて、わざわざ高低差の大きな段丘をのぼり下りする曲がりくねった道筋になった背景には、そんな事情があったのではないかと推察しています。


▲街道はこの先で直角に左折する

▲下り坂の中ほどキソキソの前で振り返る

  さて、家並みが両側に並ぶ街道を100メートルほども歩くと、ふたたび道はほぼ直角に左折して下りになります。下り坂は20メートルほどでまたまた右折して八沢川の谷間に降りていきます。この曲がり角には古い井戸の跡が保存されています。   街道の曲がり角にはそれぞれ、人ひとりがようやく通れるような細い小径がつながっていて、家々のあいだの抜け道となっています。そんな小径を歩いてみるのも福島街歩きの楽しみのひとつです。


▲八沢川の渓谷


旧街道を関所資料館から西に歩いて酒造の倉庫前で左折する

高札場跡:藪裏清水公園となっている


古民家風本棟造りのレストラン

土蔵造りの古民家も並ぶ

街道は段丘をのぼっていく。巨大な桝形をなしているようだ。

道幅は往時よりも倍近くに拡幅されているようだ

本町上の段休憩所

安倍晴明を祀った清明社とまつり会館


木曾路らしい出梁造りの家並みが続く

出梁造りで家屋の両端に袖壁が設えられている造りのレストラン


軒先の鼻隠し板と軒下の縦密格子がゆかしい

大正・昭和レトロなガラス戸の店舗古民家

軒を連ねる木曾路の古民家


出梁や出格子窓の造りがよく見えるアングル

街道はふたたび直角近くに屈曲して八沢川の谷間へ下る

ふたたび直角近くの曲がり角。正面は雑貨屋キソキソ。

古い井戸が辻脇にある。右手が八沢川の谷。


本町上の段には往時の町家古民家を復元した建物が並ぶ: 開店間近の和食処

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