この節で訪ねるのは、大手、市町、中町で、小諸城氏大手門公園から本陣問屋場にいたる界隈です。
◆大手門公園◆
大手門に訪れた日、公園の枝垂れ桜は満開になっていました。
通称「大手門」と呼ばれるこの楼門は、正式には小諸城の「四之門」です。奇妙なことに、この門は両脇の石垣と構造上は連続していません。その理由として、門の創建は石垣の構築と時期が一致していないことが考えられます。
大手門の右横には、あたかも物見櫓の土台となっていたかのような高い石垣があります。が、大手門との城郭構造上の――たとえば一体となって桝形虎口を構成するというような――関連は見られません。
この門は明治維新後には小諸義塾の仮学舎となったり料亭として使われたりしたとか。小諸義塾は、明治32〜38年に若き島崎藤村が教師を勤めていた学校です。
▲東側出口を出ると国道141号 ⇒近隣景観へ
◆移設された本陣主屋◆
大手門公園と富士見町通りと呼ばれる小路を挟んで西側には「せせらぎの丘」広場があって、その北の端に本陣主屋が移設再建されています。主屋は、御殿とも呼ばれた本陣の別棟正座敷でした。幕府の高官など公用の賓客をもてなすための、きわめて格式が高い宿泊施設で、百万石の大名、加賀藩主も参覲の旅中で宿泊しました。
▲主屋の南側には、せせらぎ水路
本陣主屋が立地しているのは「せせらぎの丘」で、そこは小諸駅に向かってなだらかに下っていく芝生の斜面になっています。
蛇行しながら流れる「せせらぎ」の畔から小諸駅の自由通路――線路を跨いで渡る空中回廊――が見えます。
斜面の端には、明治時代の鉄道施設だった赤煉瓦造りの油庫があります。その前は懐古園の三之門に通じるトンネルがあります。
▲小諸駅の跨線回廊「自由通路」を見渡す
▲明治期の鉄道施設としての油庫
◆鍋蓋城の遺構◆
大手門公園から旧北国街道に向かう小路は富士見町通りと呼ばれるようです。谷底から尾根上の街道に登る坂道です。
1480年頃には、この尾根上には小諸城の先駆となった鍋蓋城がありました。江戸時代の街道沿いの街筋は、この城の遺構の上に築かれたようです。
城の遺構の土塁の縁には石垣を施して地盤の保全をしたようにも見えます。
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