▲下和田から青原方面を眺める
◆「歴史の道」広場◆
下和田と長久保(長窪)とのあいだに位置するのが青原で、古くは阿王原郷という和田郷とは別の村をなしていたところです。
そこで依田川と大門川とが出会い、それゆえまた2つの谷間が合わさる場所です。そこで谷間はずっと広くなり、その先に依田川が生み出した長窪ないし依田窪などの複合扇状地からなる盆地を形成しています。
旧中山道と並行する国道142号は、青原橋を通って依田川を渡り、大門川との合流地にいたり、そこで国道152号と連結します。
青原橋の袂にあるのが「歴史の道」広場です。ここには、中山道の経路や歴史を説明するプレートが置かれ、樹木が木陰をつくり、さらに近隣から集めた石碑が置かれています。
◆長和の里歴史館と諏訪神社◆
和田宿から来た旧中山道は、青原橋の手前で東に緩やかに曲がって、大門川に架かる落合橋の方に向かいます。街道は落合橋で国道152号に合流して、長久保宿をめざします。
大門川と合流した依田川は江戸時代から明治期まで何度か氾濫を繰り返したのと、明治以降に耕地開拓や整理をおこなったことから、青原から長窪までの地形はかなり往時と違っています。
さて先頃、歴史の里広場から800メートルほど北に下水道最終処理施設が建設され、その地下設備の上に「長和の里歴史館」が創設されました。
白壁土蔵風の建物で、そのなかには、近隣の民衆の生活の歴史を物語る大小多種の民具や什器が展示され、歴史に関する文献・資料も集められています。
私は、この辺りの街あるき取材を始める前にこの歴史館を訪ねて相談したり、素朴な疑問をぶつけていろいろ親切に教えてもらいました。
その隣にあるのが、諏訪神社です。諏訪大社の春宮と秋宮を勧請した社です。もともとはここから600メートルほど南の依田川河畔(落合集落)にあったのですが、何度も洪水の被害にあったため、丘陵麓のこの地に移設されました。
往時、依田川は南北に流れる大門川に真横から衝突するように合流したいました。そのため、頻繁に氾濫が発生し、青原郷の住宅と農耕地は大きな被害にあったそうです。そのため、集落はより高い段丘上に移転していき、最後に諏訪神社もここに移転したのです。
してみると、依田川の流れ方(位置)は明治以降にずい分変わってきたということです。旧中山道が置かれた地形環境もまた大きく変化してきたのです。
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