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長野県長野市戸隠
消え去りゆく風景  To put your mouse on the words "Summary in English", articles in English come out.

  戸隠神社中社の東側の地区は横大門と呼ばれているそうです。横大門という地区名があるということは、大門という中心部があるはずですが、その近辺には見つかりません。あるいは、中社前の大通りを大門通りとでもいうのでしょうか。


▲今は農家のようだが、かつては宿坊だったか。みごとな結構だ。

  ところで、奥社参道の随神門近くの説明板によると、奥社参道は江戸時代まで顕光寺奥院の大門通りと呼ばれ、数多くの宿坊があったそうです。明治初期の神仏分地・廃仏棄釈運動によって、奥院前の宿坊は中社や宝光院の近くに移転させられたのだとか。
  ということは、横大門一帯の宿坊・旅館は、もともとは奥院の宿坊を営む小寺院だったが、明治以降に寺院としての性格を薄めながらこの地に移転してきたということなのでしょうか。

Summary in English Walking around Yokodaimon near Togakushi-Chusha

Togakushi Shrines were once some parts of Kenkoji Temple of Togakushi-zan belonging to the Tendai School.
However almost halls and cathedrals were destroyed under the administrative order of Meiji government. Thereafter only the shrine hoses have been conserved.
The village on the east-side of Togakushi-Chusha shrine has been called Yokodaimon since Meiji period. It means that once there were a huge temple which had some big main-gates, holding many halls and small affiliate-temple-inns (pilgrim's lodges), and that the village-town was consist of such inns.
The Yokodaimon way devarges from the main street to Chusha shrine behind Harayama Bamboo-craft Shop. Many inn-houses of traditional architecture, like temple-halls, is standing along the way. They were small affiliate temple-inns belonging Kenkoji temple of Togakushi-san which was abolished by Meiji government intending to divide strictly the Shinto-shrine and the Buddhist temple.
The great temple had been administrating the religious ascetic area of Togakushi as a whole.

Waking around Yokodaimon village, we would find out some tracse of Japanese traditional view of religious village-town, consist of the thatch-roofed houses, on the highlands.


▲横大門通りの入り口 右の小径が横大門に向かう

■横大門通りを往く■

◆横大門という奇妙な名称◆


▲集落のなかに森が割り込んでいる

  それにしても「横大門」とは不思議な地名です。
  奥社随神門近くの説明板によれば、随神門の辺りは江戸時代までは「大門通り」と呼ばれ、戸隠顕光寺奥院前の宿坊が集まる集落だったのです。奥社の大鳥居から随神門まで茅葺の宿坊が並ぶ風景を想像してみましょう。その奥には、奥の院の堂塔伽藍が立ち並び、その周囲を深い原生林が取り巻いている姿を。
  ということは、中社前通りや横大門にもあまたの宿坊(院)が移転してきたのでしょう。奥の院大門通りから移転したので「横大門」という奇妙な地名がついたのかもしれません。
  ところで、中社近傍の宿坊は、時の権力の意向に沿って、本来の天台宗寺院の宿坊から純然たる神社の宿坊に転換せざるをえなかったようです。そこで、旧来の神仏習合の伝統にもとづく密教修験の山伏風の儀典・行事(祈祷やお祓い)もまた、神道風の様式に変化していったものと見られます。
  ところが近年、高齢化や後継者不足で宿坊を廃業し、歴史ある建物が荒廃していく姿が目立っています。

  ここでは、中社前通りの原山竹細工店の少し上から東に分岐していく小径を仮に「横大門通り」と呼んで、界隈の集落を見て回ることにします。


▲高原の観光地の民宿街という趣もある

◆消え去りゆく「本来の戸隠の姿」◆

  戸隠神社を中心とする地区は今では世界的に有名な観光地となり、とりわけ日本国内では大変に人気の高いパワースポットとなっているようです。
  ところが、有名な観光地ほど、観光業界のイメージ戦略の影響が強くて、大方の旅行者は「通り一遍」で上っ面な旅になってしまいがちです。
  もちろん、「より多くの観光客が来訪してお金を落とす」ことは、それはそれで観光地が栄え生き残るためには、とてもありがたく重要なことなのですが。
  しかし、それだけでは、その地の人びとが残したい文化や歴史的景観、暮らしの伝統などが、その本当の価値を認められることなく消え去ってしまうことも多くなります。
  そんな懸念を抱く私としては、長年、戸隠の集落と自然に愛着を感じてきた――にもかかわらず、知らないことが多すぎるのですが――者のひとりとして、ずっと残ってほしいけれども消え去ろうとしている戸隠の姿(の断片)にかんする情報を提供したいと考えています。それが、この記事のテーマ(ねらい)です。


▲この小径を私は横大門通りと呼ぶ


中社目通りの原山竹細工店の先に横大門通りの入り口がある

横大門通りに入ってから振り返る

この小路が横大門通り

右手の古民家は農家のようだが宿坊の造りだ

小径の右手はカフェ。集落の背後にスキー場がある。

高原リゾート地の別荘のような住宅

この宿坊の離れは神社仏閣風の建物

かつては宿坊だったと思しき古民家

少し荒れているが、じつに広壮で重厚な造り

樹林や田畑を挟んで宿坊風古民家が並ぶ

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