◆横大門という奇妙な名称◆
▲集落のなかに森が割り込んでいる
それにしても「横大門」とは不思議な地名です。
奥社随神門近くの説明板によれば、随神門の辺りは江戸時代までは「大門通り」と呼ばれ、戸隠顕光寺奥院前の宿坊が集まる集落だったのです。奥社の大鳥居から随神門まで茅葺の宿坊が並ぶ風景を想像してみましょう。その奥には、奥の院の堂塔伽藍が立ち並び、その周囲を深い原生林が取り巻いている姿を。
ということは、中社前通りや横大門にもあまたの宿坊(院)が移転してきたのでしょう。奥の院大門通りから移転したので「横大門」という奇妙な地名がついたのかもしれません。
ところで、中社近傍の宿坊は、時の権力の意向に沿って、本来の天台宗寺院の宿坊から純然たる神社の宿坊に転換せざるをえなかったようです。そこで、旧来の神仏習合の伝統にもとづく密教修験の山伏風の儀典・行事(祈祷やお祓い)もまた、神道風の様式に変化していったものと見られます。
ところが近年、高齢化や後継者不足で宿坊を廃業し、歴史ある建物が荒廃していく姿が目立っています。
ここでは、中社前通りの原山竹細工店の少し上から東に分岐していく小径を仮に「横大門通り」と呼んで、界隈の集落を見て回ることにします。
▲高原の観光地の民宿街という趣もある
◆消え去りゆく「本来の戸隠の姿」◆
戸隠神社を中心とする地区は今では世界的に有名な観光地となり、とりわけ日本国内では大変に人気の高いパワースポットとなっているようです。
ところが、有名な観光地ほど、観光業界のイメージ戦略の影響が強くて、大方の旅行者は「通り一遍」で上っ面な旅になってしまいがちです。
もちろん、「より多くの観光客が来訪してお金を落とす」ことは、それはそれで観光地が栄え生き残るためには、とてもありがたく重要なことなのですが。
しかし、それだけでは、その地の人びとが残したい文化や歴史的景観、暮らしの伝統などが、その本当の価値を認められることなく消え去ってしまうことも多くなります。
そんな懸念を抱く私としては、長年、戸隠の集落と自然に愛着を感じてきた――にもかかわらず、知らないことが多すぎるのですが――者のひとりとして、ずっと残ってほしいけれども消え去ろうとしている戸隠の姿(の断片)にかんする情報を提供したいと考えています。それが、この記事のテーマ(ねらい)です。
▲この小径を私は横大門通りと呼ぶ
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