▲旧宿坊名の標柱
◆宿坊街に戸隠の歴史を偲ぶ◆
横大門という場所は、戸隠神社中社に向かうメインストリート(県道36号)を原山竹細工店の裏で東に逸れていく小路かいわいの場所を言うようです。
くしくもその地区には「横大門」という蕎麦店があって、なかなかにおいしい蕎麦を提供する店です。その店の名前は、まさにその地名にちなんだものだそうです。中社大鳥居から東に向かう小径と「横大門通り」との辻にあります。その店については、また別の機会に紹介するつもりです。
▲手打ちそば店「横大門」
▲中社から東に向かう小径。この先に戸隠スキー場とチビッ子忍者村がある。
▲珈琲茶館「十輪」から中社に向かう小径
「横大門」という名前がそれとなく物語るのは、本来宿坊があった場所が寺院の門前街で、しかも「大門」と呼ばれるほどの格式の寺院やそれに属する七堂伽藍や塔頭(小寺院)があったという歴史です。大門とは、――明治初期に破壊された――顕光寺奥の院の楼門で、現在の奥社大鳥居の辺りにあったと思われます。そこから随神門(当時は仁王門)辺りまでが大門通りと呼ばれれていたようです。
1868年、明治政府の神仏分離令の発令によって、戸隠一山も「戸隠山顕光寺」から「戸隠神社」への転換を迫られました。旧寺領=神領は最終的に政府に没収され、極端な廃仏毀釈運動によって寺院から神社への移行が乱暴に強行されました。戸隠山の仏宝も、駆逐・排除されて姿を消していきました。
政治・軍事革命としての明治維新が、宗教制度や宗教思想をめぐる力づくの転換・変革(破壊)をともなったのは、あるいは避けられなかったかもしれませんが、もったいない話です。
戸隠山顕光寺の三院(奥の院・中の院・宝光院)は現在の奥社・中社・宝光社と改称されました。
そして、中社の近傍にはこの顕光寺奥の院の宿坊=塔頭(付属する小寺院)として、参詣者や修行者の宿坊がありました。それらは、「○○院」と名乗っていました。それらは、大門通りから中社(旧中の院)ならびに宝光社(旧宝光院)の近傍に移転させられました。
現在、この辺りの旅館の前身は、こういう塔頭=宿坊でした。
であればこそ、これほどの山奥で、この地区の旅館はどれもみごとな結構の広壮な茅葺建築なのです。旅館のなかには入り口や玄関に「旧○○院」という表札や標識を掲げたところも数多くあります。
それらは、まさに戸隠中社の近隣地区の歴史を物語っているのです。横大門通りは、そういう歴史を感じながら、小路脇の古民家――その多くが廃れつつある――を観察するのにうってつけの場所なのです。
中社かいわいは、多数の宿坊寺院が集まっていて、江戸時代まで、巨大な寺院があった歴史を伝えていました。ところが今、それが失われつつあります。後継者がいなくなって放置され荒廃しつつある古民家も目立ちます。
◆戸隠中社界隈の集落、横大門◆
戸隠中社近辺は、軽井沢と同じか少し高い標高の高原に位置しています。集落を樹林などの深い緑が取り囲んでいる環境は、軽井沢に似ているともいえます。
しかし、伝統的な和風古民家が並ぶその集落の街歩きは、軽井沢の別荘地めぐりとはかなり違った「和の趣」で、何やら懐かしい心地よさがあります。
横大門という場所は、戸隠神社中社に向かうメインストリート(県道36号)を原山竹細工店の裏で東に逸れていく小路かいわいの地区を言うようです。
くしくもその地区には「横大門」という蕎麦店があって、なかなかにおいしい蕎麦を提供する店です。その店の名前は、まさにその地名にちなんだものだそうです。
「横大門」という名前には、この地区が寺院の門前町で、しかも「大門」と呼ぶほどの格式の寺院やそれに属する七堂伽藍や塔頭(小寺院)があった歴史を物語っています。
▲極意主屋脇の茅葺別棟は修復中
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