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長野県長野市戸隠
戸隠神社中社前通り  

  2018年の7月末と9月半ばに戸隠神社宝光社を訪ねました。真夏の訪問では、小川村高府から戸隠街道(県道36号)を通って鬼無里経由で宝光社に参拝しました。秋の探訪では、宝光社から森のなかを往く戸隠古参道を沿いに中社前まで歩いてみました。
  ここでは、宝光社とその隣にある火の神子神社を参拝してから、深い山林のなかを通る古参道を散策したときの体験を報告します。


▲県道36号(戸隠街道)。小川村・鬼無里からの旧街道は石段の手前(郵便局前)に連絡する。

  宝光社は江戸末期まで顕光寺の宝光院という寺院でした。宝光院はもともと現在の奥社(当時は奥の院)にあった――10世紀半ばに奥院の相殿として建立された――のですが、平安時代の11世紀半ばに現在地に遷祀されたのだそうです。明治初期に神仏分離・廃仏毀釈運動によって寺院としての制度と堂宇を破却されてしまいました。


▲戸隠街道から宝光社にのぼる石段。拝殿まで石段は5つも続く。

■宝光社は戸隠神社の入り口■

◆女性のための祈願所◆

  宝光社の祭神は天表春命あめのうわはるのみことで、中社の祭神である天八意思兼命あめのやごころおもいかねのみことの子だということです。技芸、裁縫、縁結、安産、厄除、家内安全などの神徳があり、婦女子や子供の守り神として崇められてきました。
  戸隠山が修験場だった時代(江戸時代まで)には、おそらく中社から先は女人禁制となっていたので、せめて戸隠のとば口にある宝光院までは女性や子どもの参詣を認めていたのではないでしょうか。
  しかし、戸隠街道から宝光社拝殿までのぼる石段は全部で5段階あって、総段数は270にも達するのだとか。女性には楽な参道ではありません。

  ところが、宝光社の近傍に並ぶ宿坊――明治初期に奥社から移転させられた――にいたる小径が、急坂がない戸隠街道の脇道として通っていたので、女性や連れの子どもたちはそこを歩いて参詣したのかもしれません。多くの旅人は高低差のない脇往還を経て戸隠に参詣したのかも。


▲宝光社前の宿坊

◆古い戸隠街道の道筋を推定する◆

  私は村内の小径を歩いてから地図を見てこう考えました。現在の戸隠街道(県道36号)は自動車の普及に応じて建設された新道で、昔の戸隠街道は郵便局前を東に抜けてから西に折り返し、つづら折りの道で旧宝光院前にいたり、さらに宿坊横川の手前を通って火の神子社脇の小径をのぼって中社下に出たのではないか、と。
  県道36号はエンジン付きのクルマでなら苦も無く中社まで到達することができますが、自らの足だけを頼りに1日に何里も歩いて旅する人びとにとっては消耗が大きすぎます。ジグザグの道を辛抱強く歩きながら、標高を稼いで戸隠神社に詣でたはずです。

◆宝光社の境内◆


▲傾斜が緩やかな女坂は石段の脇を迂回する

  県道から最初の石段をのぼると平に造成した壇があって、ここにはお手洗いと手水舎、説明板があります。おそれく江戸時代まではここに宝光院の堂宇が建ち並んでいたのでしょう。
  この壇からさらに石段を4つのぼってようやく宝光社拝殿に達することができます。手摺りが設けられていても石段参道は傾斜がかなり急なので、その脇を迂回するように、傾斜のずっと緩やかな参道として女坂があります。石段参道は杉の老巨樹の並木に取り巻かれています。見ると、下るときに石段を避けて女坂を歩く参詣者が多いようです。


▲傾斜が緩やかな女坂は石段の脇を迂回する

神輿倉のなかに保管されている神輿


現在の県道36号(戸隠街道)

宿坊横川の前を通る高低差のない脇往還

茅葺古民家の造りを保っている旅館

旧宿坊の趣きを残す越志旅館

この石段上の壇には陣の堂宇があったのだろう

今は手水舎とお手洗いがある広場

さらに石段は続く

最上壇に宝光社の拝殿がある

社務所と授与所

神輿倉 大きなガラス窓越しに神輿が見える

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