◆観音堂の受難◆
現存の観音堂は、建物内部の「奉建立十一面観世音堂并宮殿」という棟札から宝永3年(1706年)の建立だということが証明されているそうです。その事業は、三重塔の再建と並行しておこなわれたものと見なされます。
『若一王子神社御本尊創建四五〇年記念事業 長野県宝 観音堂・三重塔修理工事報告書』(平成23年刊)によると、観音堂は方3間、寄棟造り、茅葺き、妻入りで、お堂の正面に1間の杮葺き向拝が付設されているということです。
▲観音堂の平面図(出典:上掲報告書)
観音堂の構造の特徴としては、上の平面図が示すように、屋内の中央よりも奥まって内陣を設けて、そこに宮殿(独立の殿堂として須弥壇を結構)を置いている点です。
この宮殿のなかには銅製の十一面観音座像が置かれています。この坐像は明治心の廃仏棄釈運動のなかで火中に投げ入れられたこともあるのだとか。
観音堂自体も氏子一同が「神楽殿」と呼んで神社と一体のものと主張したことで、どうにか破壊を免れたのだそうです。
そして、お堂の連子窓を拝殿側に向けて、社殿に正対する形式を取り繕って、破却を回避したのだとも。
明治維新は旧秩序を葬り去りその権威を破壊するために、とてつもない文化の破壊をおこないました。「進歩」という名において。
信濃ではたとえば、諏訪大社上社の神宮寺でも、飯山市の小菅山元隆寺でも、政府が総督を派遣して民衆を扇動して神仏分離と廃仏棄釈による暴力的な破壊をおこなわせました。五重塔や伽藍のほとんどが破壊されてしまいました。
そのうえ、破壊活動の後、扇動に乗って暴動を起こした民衆の多くを厳しく処罰しました。政治に利用するだけ利用し尽くすと弾圧・抑圧したのです。幕藩体制で抑圧されていた人びとは、旧秩序や権威を破壊すれば自分たちの権利が認められると誤信して、運動に参加したのに。旧秩序の破壊に民衆を扇動動員し、彼らが権利を要求する前に押しつぶしたのです。
◆三重塔の特徴◆
現存の三重塔は、棟札などから宝永年間(1706年着工、1711年完成)の建築だと判明しているそうです。木食山居の勧進によるもので、高山寺の三重塔と同じです。
若一王子神社の三重塔は、その設計図と仕様書がともに保存されていて、それはきわめて希少なことだそうです。
また、元和年間(1616年)の松本藩小笠原家家臣による仁科家系図に関する報告で、現存三重塔よりも以前に舎利殿(塔)があったことも確認されています。
この三重塔の一番の特徴は、その圧倒的な大きさと重厚感、つまり高さと各重の堂舎と屋根の横幅の広さです。塔の高さは21.28メートルで、信州で最高を誇っています。
初重から上層に向かっての堂舎と屋根の逓減率はきわめて小さく、その分どっしりした印象です。離れて見ると「ずんどう」に感じるかもしれませんが、下から見上げたときにその大きさや高さを実感するようになっています。
この「どっしり感」をもたらす構造のため、各重の屋根は堂舎に比べて小ぶりに見えます。屋根の形状が羽を広げた鳳凰のような大宝寺の三重塔の構造とは、きわめて対照的です。
屋根に比べて堂舎が幅広だという感じは、各重の欄干の幅を広くとっていることでさらに強調されているようです。
▲近くから見上げると
三重塔の向きは、西側だけに連子窓が設えられていることから、西に正対しているということがわかります。
神社の境内全体に置いてみると、参道を真横に正対しているわけです。
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