◆開創後の荒廃と中興?◆
開創後しばらくして、ここは深い山中なので、寺院はその後荒廃したのかもしれません。あるいは政治的混乱にともなう大和王権の影響力の後退が原因かも。
ところが、9世紀のはじめに坂上田村麻呂が東征のさい――安曇野では魏石鬼八面大王を追討したという伝説がある――に、この地に立ち寄り、戦勝を祈願して寺の中興に貢献したという言い伝えもあります。同じような創建と中興の伝説は、全国各地にあるようですが。
田村麻呂東征伝説のもとになったのは、安曇野の豪族仁科氏が大和王権の命を受けて、王権に反逆する勢力を征討した戦役なのだとか。この戦役に派遣された将軍が田村守宮で、伝説では田村麻呂と混同されたようです。
▲石段をのぼって仁王門を振り返る
ともあれ、その頃には、遣唐使が盛んになって、とくに俊英の仏教学僧たちが次々と中国大陸に渡って留学というか修行をしたようで、最澄が帰国後に天台宗を、空海が真言宗を開創しました。
深い山中での密教修験によって仏教の奥義や真理を探究しようとする動きが盛んになり始めた頃です。ことに。彼らが留学で得た最先端の仏教知識や当時の科学技術(医療も含む)を各地方に広め、農村開拓や都邑建設を指導した頃です。
満願寺も安曇野における真言密教の修行の――それゆえまた農村開拓の――拠点となったのかもしれません。
Summary in English
◆参道と堂宇をめぐる◆
微妙橋から始まる参道の道筋は、現生から極楽浄土への道筋を表現して設計してあるそうです。深い森のなかの曲がりくねった参道をのんびりのぼるうちに、目の前に長い急な石段が現れました。見上げると、石段の上に堅固な造りの仁王門が見えます。
庇下まで近づいて見上げると、「救療山」という扁額が掲げられています。仁王門は三門なのです。すると、やはりここは真言密教の修行と医療サーヴィスの拠点だったのではないでしょうか。現生利益の真言宗ですから、古代から医療の知識や技能を持つ学僧たちが、同僚や参詣者、近隣の住民たちに医療を施していたのでしょう。
現在の栗尾山のほかに救療山という山号があるということは、江戸時代までは、今と比べてずっと大規模な境内でそのなかにはさらに多くの堂塔伽藍があったのではないでしょうか。
門をくぐってさらに石段をのぼるとようやく堂宇が並ぶ高台の上まで到達します。ここで、参道はいったん南西に向かい、手水舎と鐘楼を見ながらUターンする形になります。
鐘楼の脇を右に曲がると、広壮で重厚な本堂が見えてきます。本堂の東側にはこれまた広壮で重厚な本棟造りの庫裏があります。
本堂の西脇の壇上には聖天堂があって、小ぶりですがじつに端正な結構です。聖天とは、仏教の守護神で大聖歓喜天のことですが、真言では大日如来が現世で衆生済度のために取る姿なのだとか。
聞きかじりの知識ですが、歓喜天は菩薩という格付けを与えられているそうで、菩薩とは仏教世界で最高位の如来になるためにいまだ修行中の身で、その分、私たち衆生に近い存在です。そこで、私たちとほぼ同じ現生の平面に降り立って救済の手を差し伸べてくれるのだとか。
観音様も地蔵様も菩薩で、仏教の天上界と現生とのあいだで活躍する庶民的な存在なのでしょう。
本堂向拝の下の造り
▲本堂の大屋根の妻側
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