山ノ内町佐野の山腹高田台に位置する萬松山興隆寺は、今は曹洞宗の禅寺です。住職の話によると、読みは「こうりゅうじ」でも、古くは幸隆寺と記されていたそうです。
寺伝によると、1536年(天文年間)、武田家の家臣海野幸隆が開基し(資財や領地を与え)、僧寛海が真言宗の寺院として開山(堂宇を建立)したそうです。本尊は大日如来でした。
海野幸隆とは真田幸綱の晩年の呼び名だそうです。
私は取材中に折よく帰還された住職と会うことができ、そんな話をうかがうことができました。寺の後継者も決まったこととて、今後、寺の歴史について考究したいとのことでした。キジトラ猫もやって来て歓迎してくれました。
参道入り口には三界万霊塔と石仏群が並ぶ
▲わずかな木漏れ日が参道を照らす
ところが1550年(天文年間)、内角間川の氾濫・土石流で集落とともに寺は流失し本尊は大きく破損したそうです。こうして寺はいったんなくなってしまいました。
その後1563年、小島修理亮の支援を得て寛海は北田堀之内に一宇を建てて、修復を施した本尊を安置したのだとか。しかし30年間は無住で荒廃したようです。このときは寺院の再興再建までにはいたらなかったようです。
1577年(天正年間)、小島修理亮が開基となって寺院堂宇伽藍を再建し、寺号を萬松山興隆寺と改め、宗旨を曹洞宗としました。鎌倉時代から室町・戦国時代にかけて、信仰を広げた曹洞宗によって荒廃衰微した古い寺院を復興・再興する運動が各地で繰り広げられたのです。
やがて徳川幕府の世になって、1683年(天和年間)に現在地――前林地籍――に寺院を移設したということです。ここは、古い寺院とも神社ともつかない廃墟ないし遺構があったところだとか。境内の本堂前には古い時代の堂宇・楼閣の柱の礎石が残っています。私の勝手な推測では、在地の神を祀る真言密教の修験道場の跡ではないかと見られます。
▲修復した蔵が並ぶ姿も端正だ
▲昔の堂宇または楼閣の礎石跡らしい
▲主顔(あるじがお)をした猫が出迎えてくれた
そう見る理由があります。それはこの寺の本尊の仏像をめぐる謎です。興隆寺としての本尊は阿弥陀如来座像で、平安朝藤原時代(10世紀はじめ頃)に造られたもので、桂材が用いられているそうです。1966年6月、仏像の修理所で修復がおこなわれ、本来の姿に復元されました。このときにこの仏像が大日如来ではなく阿弥陀如来であることが鑑定で明らかになりました。
大日如来像の言い伝えと実在の阿弥陀如来像との食い違いがあるということです。真言の古い密教寺院があったことから、真言宗の本尊である大日如来像のことが言い伝えられていたのではないでしょうか。古くは両方ともあったけれども、大日如来像は失われたという推測です。つまり、古代にここには真言密教の修験場の有力寺院がったのではないかということです。
▲境内の北の彼方にそびえる高社山
▲山門下から回廊のなかを覗くと・・・
現本堂は江戸中期の再建によるもので、越後の弥彦神社の宮大工集団の手になるものだということが、棟札に記されていたそうです。今は金属板が葺かれています。他方、山門(薬医門造り)は元禄時代の建築(再建立)だということで、重厚さと端正さをともに備えています。
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