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長野県松本市内田山
 
 
深い山中の寺院  

  この寺院の縁起をめぐる伝説はスケールの大きな物語です。
  756年、唐の玄宗皇帝の命で、楊貴妃の菩提を弔うために大般若経600巻を日本の信州善光寺に送り届けることになりましたが、その経典を運ぶ赤と黒の2頭の牛が鉢伏山中腹で倒れてしまったとか。本尊の十一面観音が大般若経典がこの地にとどまらせたいと霊力を発揮したということで、ここに寺院を創建したというのです。
  牛が伏せた場所に建てられた寺ということで「牛伏寺」と名づけられたというわけです。そこで、牛伏寺の読み方は「ごふくじ」と「うしぶせでら」の2通りがあるようです。

▲境内の池越しに如意輪堂を望む 茅葺の屋根に山寺の重厚さがにじむ
如意輪堂の手前は惣門

■山腹の高台にある寺■

◆謎だらけの寺の起源◆

  唐から来た経典を運ぶ牛が倒れたとされる場所は、現在の所在地の裏山だそうです。現在地には戦国時代の1534年に堂平から移されたようです。
  堂平への移設は平安末期の1214年で、それから320年余りにわたって堂宇が造営されていたと伝えられています。
  しかし、さらに寺の歴史は古くそれよりも200年以上も前には蓬平という場所に仏堂が置かれていたとも伝えられています。
  唐から600巻の経典が来たとされる時代には、鉢伏山山頂に蔵王権現を祀る仏堂があって、その周囲から山腹にかけていくつもの仏堂が造営されていたと推定されているとか。

◆密教修験の拠点から発足か◆

  してみると、勝手な想像の翼を羽ばたかせてみるに、奈良時代にこの地の豪族への仏教信仰の浸透とともに鉢伏山一帯に寺院仏堂や神社の造営が始まり、やがて戸隠山や小菅山と並ぶような真言密教の修験の拠点となって、かなりの数のエリート学僧が集合したのではないでしょうか。
  玄宗皇帝の関与はともかく、遣唐使に同行した学僧たちが原典から写して持ち帰った大量の仏典経典が、信州の密教修行の拠点であるこの地に運ばれ、研究され、さらに写本がつくられて信濃の各地に運ばれたのかもしれません。
  牛伏寺にはたくさんの仏像や文書などの文化財が残されていますが、それは深い山奥にあったため、明治政府が扇動した神仏分離・廃仏毀釈による乱暴な破壊がおよばなかったためでしょう。

◆参道から歩く◆



▲牛堂の少し先に並ぶ石地蔵

  さて、牛堂や六地蔵を過ぎた辺りで、牛伏寺への参道が堰堤湖の脇で舗装道路から分岐します。参道には舗装がなく、舗装道路はフランス式階流路に向かいます。
  参道は冠木門から石段が始まり、鬱蒼と影を落とす杉やヒノキの並木の下を登ることになります。段差の大きな石段です。
  樹間からダム湖を見おろしながら石段を往くと、瓦屋根の大棟に鯱を載せた重厚な薬医門に行き着きます。これが山門です。山門をくぐると、広壮な本坊前に出ます。


▲本坊前の庭園


石段参道の手前にある牛堂

このか冠木門をくぐると石段が始まる

鬱蒼たる杉林の下を往く石段

杉並木越しに牛伏川砂防堰堤ダム湖が見える

石段の中程で振り返る

石段の上に山門が見えてくる

高台にある山門

どっしりと構える本坊

本坊の奥には茅葺の如意輪堂

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