本文へスキップ
長野県大町市大町
 
  深い山中にあって晩秋、錦繡に取り巻かれた霊松寺本堂。
  四季折々に多くの人びとが参詣に訪れる。

 
境内庭園と堂宇  


▲霊松寺山門 十二脚楼門。もともと1862年に安曇野松川村の観勝院の山門として建立された。

  霊松寺の境内は建物も立派ですが、境内庭園の樹々もまた信州ではそれと知られた名物です。たとえばオハツキイチョウ。「オハツキ」というのは銀杏の実が葉についている、という意味で、ここのイチョウは枝によっては、数億年前にイチョウが地上に出現した頃、最初期の形状に先祖返りしているのだそうです。


▲樹齢100年を超えるドウダンツツジの巨木もある

  イチョウは地上に昆虫が出現するよりも前に出現したたため、虫媒花はなく、花の原型である葉――花は葉から進化した――に種子が直接接合しているというわけです。
  ほかにも、樹高が3メートルにおよぶドウダンツツジの老巨木が、目が覚めるほど鮮やかな赤い紅葉になっています。この山の土は、よほどにドウダンツツジに適しているようで、枝ぶりもみごとで、晩秋までどれも大きな葉をつけています。

■信州で最古の曹洞宗禅寺■

◆正面参道に回ってみよう◆


▲総門は端正な薬医門方式

  霊松寺の駐車場は2つあります。ひとつは林道から入って鐘楼の前にある駐車場。こちらは健常者ないし「歩きたい派」向けです。もうひとつは、その駐車場を経由して本堂と庫裏の裏を回り込んで入る駐車場。こちらは、高齢者や歩行困難者向けです。
  正式の参詣をとこだわる方は、千国街道沿いの御嶽山国立神社の脇から登る遊歩道を歩いてください。落ち葉が降り積もった、足にやさしい小径です。地元の「通の人たち」はこの小径を散策しながら参詣するそうです。


▲ドウダンツツジ越しの山門

▲本堂と庫裏が直角をなして隣り合う

▲山門と庫裏にあいだから本堂を眺める

◆風格のある建物群◆

  さて、総門は薬医門方式の造りで江戸末期の建築。近年再建したそうです。もともとは杮葺きだったようですが、今は銅葺き。このところ、銅板が酸化して枯れた味が好印象。
  次に山門は十二脚の楼門方式です。江戸末期の建築で、1874年の明治政府による廃仏太政官令によって松川村の観勝院が廃寺・破却されたさいに解体してこの地に移設したそうです。これだけの文化財が失われなくて、本当に幸いでした。
  1993年には県宝に指定され、2004年に屋根が金属版葺から茅葺に復元されました。
  山門の真後ろには本堂。
  本堂は、明治政府の葉仏令の直後に建立されたのだとか。広壮で立派な造りですから、多額の費用が信者檀家から集められたでしょう。廃仏毀釈という世の動きに抗っても、多くの人びとが求めたということです。
  本堂と直角をなして隣に並んでいるのが庫裏。禅堂にもなるのか、圧倒的な存在感。1847年、善光寺地震による火災で堂宇がすべて灰燼に帰した直後、再建への第一歩としてこの庫裏が拘留されました。


▲周囲の山林と庭園が隔てなく融合

  山寺のいいところは、周囲の山林と境内庭園とがことさらに隔たりなく連続して一体化している点です。これが日本人の自然観と世界観、つまりは宗教観を表すもので、自然と人間社会を連続的・一体的に観照する発想です。

  そうであるとしても、人の手を加えた自然=樹木は一風独特の存在感を放っています。ここでは、一体的でありながら、自然物に人間の心を映させて相互に媒介的な実在が示されます。


▲この輝きは雪と氷の到来の予兆


報道裏と駐車場を回り込んで正面参道を歩く

木漏れ日を浴びた総門

山門の脇にはオハツキカエデの巨樹がある

裳階下、欄干下の彫刻に見とれる

真南を向く本堂。唐破風向拝が美しい

山門下から庫裏を眺める

同じく庫裏を眺める

紅葉の裏山にも負けない存在感の庫裏
八徳水と呼ばれる湧き水

境内庭園はあざや屋で、かつ陰影深い

晩秋の境内をもみじ色に染め上げる

まもなく境内も雪と寂寥に包まれる。ひとときの輝き。
 
信州の寺院と神社

信州の三重塔めぐり

信州の鎌倉 寺社めぐり

上田 寺社めぐり

飯山寺めぐり

小布施の寺社めぐり

のんびり写真館

街歩き写真館

木曾路・奈良井の心に残る風景写真を特集

  • 街並み景観、風物
          フォトギャラリー
  • 木曾路・奈良井散策

奈良井まちあるき

小布施まちあるき

別所温泉まちあるき

塩田平をめぐる旅

◆ブログ風の記事案内を見る

|  次の記事に進む  |

◆霊松寺 Googleマップ◆