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長い経済の停滞に直面して、私たちはこれまでの暮らし方とともに「街の形」「街並みの姿」について再考や反省を迫られています。
そんななかで、古い街道宿駅の様子を残している街並みが、このところ、大きな注目を浴びるようになっています。木曾路では、早くから街並み景観の保存・再生運動が始まりました。
たくさんの訪問客でにぎわう街▲
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街並み景観には、良くも悪くも、歴史がたたみ込まれているようです。
今では、古い歴史や近世の面影を残す街並み景観を残してきた街は、はたから羨ましがられています。
けれども、こういう街には、苦しい選択を迫られた時期があったに違いありません。
何もかも「文明開化」や「富国強兵」のため、という「近代化」の動きに取り残されていく、そういう危惧に悩んだこともあったでしょう。
そして、戦後の「高度成長」の時期には、街の形で「とにかく東京をまねる」というような政策が全国で大手を振ってまかり通っていました。
古い街並みを残す街まちでは、自分たちがどういう街づくりをするのか、どんな街で生活していくのかという判断に迫られました。
そういう状況のなかで、街の姿と生計をめぐって自分たちの生き方を問われたはずです。
長い年月の努力の結果、今「和の美」を残すところでは、「街の歴史」「街並みの美しさ」について、控え目だけれども、確固とした独自の尺度をつくり上げてきました。
妻籠も、そういう街のひとつです。
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明治維新ののち、鉄道や道路が太平洋沿岸部や主要都市を結んで建設されていきました。
妻籠はそれまで、江戸幕府の街道という古い交通体系のなかで、内陸の主要街道の宿駅としての役割を果たしてきました。
しかし、明治の文明開化からのち、その役割を失った妻籠は、繁栄の道から取り残されて、衰退し続けました。
ところが、高度成長の絶頂期、1960年代の中頃から、江戸末期の宿場の様子をとどめる街並みが見直されるようになりました。
妻籠でも、全国に先駆けて歴史的景観としての街並みの保存活動が始まったのです。
妻籠の人びとは、街並み景観を守るために、「家や土地を売らない、貸さない、壊さない」という住民憲章を打ち立てました。
妻籠で暮らしながら、街並みを保存することと経済生活を両立させていく道を選び取ったのです。
この街を訪れるたびに、私は現代日本の「もうひとつの道」の素晴らしさを深く感じるのです。
今では、江戸時代の街並み景観という大変貴重な資産を保ち、未来に伝えていこうとしています。
そして、私たちの多くが失ったものの価値の大きさを痛感することになります。
【写真右】 妻籠は周囲を山林と田園に取り囲まれている
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