◆消え去った歴史的景観◆
塩尻は江戸時代にも交通や商業流通の要衝でしたが、明治以降の近代化でも同じでした。そのため、街のなかに国道が建設され、近代化ことに昭和の高度成長期の影響をおおきく受けることになりました。
つまり、古い家屋と街並みがどんどん消えていきました。やはり、古い町屋は住みにくいうえに、現代では維持に大きな手間と費用がかかるからです。
やはり木と紙と土でつくられた伝統的な和風家屋は失われやすいということでしょうか。
◆保存・復元運動◆
それでも、信州の中山道沿いの各街々では、個別に町屋家屋などの保存の努力がおこなわれてきました。江戸時代に旅籠「銀杏屋」を営んでいた小野家住宅は、その全容が保存され、今は国の重要文化財になっています。
その西隣の「たけくら武居酒店」の家屋も町屋風に再建されました。こちらは新たに再建されたもので文化財ではないのですが、中仙道に特有の出梁造りで、大きな町屋家屋が隣り合って2棟並んだ姿はなかなかに圧巻です。
この近隣の中町は、旧中山道塩尻宿の街並み景観の保存・復元運動の核になっているように見えます。
西から笑亀酒造は明治19年創業で、天領陣屋跡地に重厚な主屋と土蔵(醸造場と穀蔵)が現在まで保存されています。「新酒仕込み」を告げる杉玉を「招き屋根」に吊るしたこの建物群の姿は、印象的です。
酒造会社の東隣は脇本陣跡、さらに東隣りは本陣跡で、今ではそこに立派な標識があります。
この本陣は立派な薬医門を備え、妻入りの本棟造り(下の写真参照)で雀踊りを載せていた広壮な主屋がありました。
▲本棟造りの家屋 妻面の上にある飾りが雀踊り(雀脅しとも呼ばれる)
間口は24間で、街道に面して薬医門と海鼠塀、主屋、土蔵、楼閣並んでいました。それぞれ間口8間の造りでした。しかし、明治15年の大火で焼失してしまいました。
本陣跡と街道を挟んで真向かいには高札場が再建されています。
◆往時の街並みの様子を探る◆
街道宿駅の街の敷地の地割りを「町割り」と呼びます。往時、宿場町のような都市的な集落は「大海のなかの孤島」のような存在でした。そこには、街道に面した限られた土地により多くの商業施設を集積させるために、間口を狭く、奥行きを深くとる町割りとなっていました。
▲町割りの名残り。普通の家屋では間口は2間で、奥行きが20間ないし40間ある。
あの京都も含めて日本の道路に面した町割りは、通常、間口2間、奥行き20間ないし40間でした。とはいえ、問屋、旅籠など有力商家は別格で、間口は8間ほどもありました。ところが、本陣、脇本陣はさらに破格で12間以上のものも多くありました。
このほかに往時の塩尻宿の様子を残すものは、御旅宮と宿場用水です。
塩尻宿では、現在の仲町交差点脇に御旅宮が残っています。ご神体が本来あるべき奥社などから旅をして、そこに移されているという祠です。宿場用水は、ややと多くの河川から飲み水以外の生活用水を街区中に引き込んだ設備です。
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