集落の西の入り口に立つ鉄製の鳥居型アーチ
写真が示すように、今の旧街道は舗装されて起伏がない滑らかな路面となっています。しかし、このように平滑な路面となったのは、車両の通行を考えた道路整備が図られるようになった明治の文明開化以降のことで、江戸時代には、街道はほぼ自然の地形にしたがった形になっていました。
つまり、江戸時代には路面は土でラクダの背中のようにデコボコで起伏に富んだ状態だったはずです。沿道の各戸の敷地はだいたい平坦にならされていたでしょうから、街道と敷地の境界には昔から低い石垣が施されて地盤を支えていたものと考えられます。
街道から奥まったところに家屋があって街道とのあいだに広い庭がある屋敷は、もともとは家の南側に畑があって、それがやがて庭園に仕立てられたのではないでしょうか。
端正に仕立てられた緑地帯(和風の前庭)と石垣で家並みと街道が隔てられている景観・・・そのなかに高札場跡があって、復元された小ぶりの高札場が立っています。敷地を縁取る生垣の列にすっかり溶け込んでいます。
ところどころで街道は緩やかに曲がる▲
高札場は前庭の生垣が並ぶ風景に溶け込んでいる
■集落内の道は自然発生的な形■
柿沢集落内の道(旧村道)は、旧中山道も含めて自然発生的な形です。曲りが多く、街道を横切る小径も筋違いだったり、斜めだったり、湾曲したり、南北片側の交差だったりで、規則性や計画性がありません。これは、街道が建設される前から村落ができ上っていて、集落内は既存の道路の形にしたがうしかなかったという事情を物語っています。それだけ、古くから開けた豊かな農村だったということでしょう。
そんな自然発生的な村道と街道とが出会う辻に双体道祖神があります。集落の中ほどのこの辻は、八幡神社への参道が街道から北に分岐するところです。参道は左右に湾曲しながら北東に向かい、200メートルほど進んだ地点で八幡神社の大鳥居前にいたり、そのまま丸山丘の裾を往き、丘の東端に沿って東から南に回り込みます。
参道と街道とが出会う辻は、集落の南側にある首塚・胴塚へと向かう小径と筋違いになっています。八幡神社と首塚・胴塚については別のページに探訪記を載せます。
このような古民家が5棟ほどある
集落中央の辻にある双体道祖神と旧街道絵地図
すでに書いたように、柿沢集落のなかを往く街道は、家並み700メートルほどの間に47メートルものぼる傾斜です。鉄道風に表記するなら64/1000(64パーミル)という急勾配で、列車が登れないような坂道です。
この道を歩き続けるのは楽ではありませんが、視界のなかで緩やかに曲がりながら先に向かって上昇していく沿道景観は、立体的で奥行き感があります。しかも、美しい前庭をともなう家並みの敷地が階段状に連なっているのです。あのカーブの先の風景はどうなっているのか、楽しみな街道歩きになります。
上り下りの道なりや家並み、庭園の並びは、信濃の山間や谷間を抜けて往く旧中山道の風景の素晴らしさのなかでも、最も大きな要因のひとつです。柿沢から今井までの塩尻峠を往く旅は、中山道歩きのなかでもおススメしたいコースです。
■街道脇の馬頭観音(石仏群)■
杉木立ちの根元に古びた石仏が4体並んでいる
高い石垣で大きな段差を支えている
みごとな景観を追いかけているうちに集落の東端に近いづいてきました。すでに40メートルは標高を稼いでいます。
家並みの間に草地や畑や樹林が割り込んでくるようになりました。そんな一帯の街道の左(北)脇の小さな杉林の根元に石仏群を発見しました。杉木立が陽射しを遮り根元は深い陰影となっています。近づいて観察すると、馬頭観音像を浮き彫りにした石仏がひとつ、馬頭観音の文字が刻まれた自然石の塔が2つ、残りのひとつはひときわ小さいうえに劣化していて、文字や像は判別できません。
石仏群の傍らにやや大きめの石が集まっています。おそらく小堂の石垣か石積み基盤が崩れた跡のようです。ここにはかつて人びとの祈りの場があったのでしょうか。杉木立は、お堂を取り囲む叢林の名残りなのかもしれません。
集落の東の端に街道を挟んで2、3軒の住戸があります。両側の敷地ともに高い石垣で大きな段差を支えています。ここは、いわば谷間になっています。江戸時代には小丘があったのを明治以降に切通して、街道を滑らかな坂道にして、両側に屋敷地を造成したものと見られます。
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