◆小坂田池◆
旧中山道は永福寺の旭観音堂のすぐ東で四沢川にさしかかります。その川沿いに北に向かって山の中腹に登る小径があって、小径の先に小坂田池があります。
小坂田池は、江戸時代の前期(1640年頃)に松本藩によって灌漑用水として山腹斜面に構築されました。塩尻宿とその近辺の田畑は、主に田川や四沢川から引いた用水でまかなわれていますから、この池の水は池堤の真下の金井地区の灌漑に用いられたものでしょう。
ところが、この溜め池は建造の翌年に大きく決壊して、直下の金井村の田地を押し流してしまいました。
当時、松本藩は幕府から、塩尻峠や塩尻宿をふくむ中山道の普請を命じられていたうえに、や松本城の藩庁としての整備などで財政逼迫状態でした。そこで、決壊した池は二十数年も放置されていました。
ようやく1665年になって池を修復し堅固に築堤し直しました。その頃には塩尻宿の商工業が力強く成長していましたし、灌漑用水が確保できたことから金井地区の稲作も発展して、藩の税収が増えていく条件が生まれました。
◆銀杏屋の溜め池堤◆
▲以降の傍らに立つ説明板
小坂田池と永福寺を挟んでちょうど反対側の尾根の麓に「銀杏屋の堤」の遺構があります。
今では、150メートルほどの堤防遺構が残っているだけです。堤防は底面で幅4メートル、上面で幅2メートル、高さ2メートルほど。
溜め池のの形状は、右の写真の尾根と堤防で囲まれた、一辺が100メートルほどの三角形または扇形だと思われます。
説明板には、1860年に築堤され、貯水量はおよそ4000立方メートル、一町歩の田を灌漑したとあります。そうすると、池の深さは1メートルないし1.3メートルくらいだったのでしょう。
◆耐震工事中のみどり湖◆
さて、ここから南東に2.5キロメートルほど三州街道沿いに峠を登ったところに「みどり湖」という大きな池があります。
私の計画では、その大池も記事にするはずだったのですが、現在、築堤と底面の耐震工事中で、水がすっかり抜かれています。
湖管理事務所によると国土交通省では、東日本大震災のあとで、ダム湖や溜め池の単身設計基準が大幅に変更されたため、予算が取れ次第、全国各地の溜め池やダム湖の改修を進めているのだとか。
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