▲心光寺お堂前で道は鍵の手になっている
▲心光寺お堂内部の奥には須弥壇がある
▲心光寺前から海野宿方面を振り返る
西桝形跡から200メートルほど進むと、街道北側に心光寺のお堂があります。街道の両側には、大きな床面積で瓦葺きの古民家が並んでいます。なにやら昭和レトロな家並み、何か癒される場所です。
心光寺そのものについては、手許に情報を集めることができません。今ではお堂だけが残されていて、裏手には寺院跡と思しき草原の空き地があるだけです。ただ、心光寺お堂の裏手は、戦国末期まで願行寺という大規模な古刹があったそうです。
願行寺は、真田家の祖、海野氏が帰依した寺院で、天文年間(16世紀半ば)に海野幸義が祖先の棟綱の菩提を弔うため海野郷に堂宇を建立し、松誉岌香上人を招いて創建したと伝えられています。そして1586年(天正年間)、海野氏の傍系である真田幸隆の子、昌幸が上田城を築いたときに城下に移設し、岌譽道山上人を招いて中興開山し、その後、真田家が手厚く庇護しました。
▲成沢川堤防は石垣で強固に護岸
◆養蚕業の中心地としての街並み◆
さて、西海野に修復保存されている古民家の多くは昭和期のものと見られます。そのうち瓦葺き二階屋は、どれも床面積が大きな建物です。海野宿は明治以降に養蚕業の中心地のひとつとなり、それにともなって養蚕業に適した二階屋造りの建築様式が普及しました。
それらの建物は、厨子二階造りから本二階造りになって二階部分が高くなり、室内気温・湿度の変化を防ぐために厚塗りの土壁を施し、二階の屋根の上に通気口を設け小屋根を載せました。これが海野宿独特の蚕室造りです。
▲真壁造りだが旅籠屋様式と蚕室様式の折衷
海野郷の古民家の造りについては、この後の記事で特集することになりますが、西海野の街並みの家屋の特徴について、もう少し触れておきましょう。
茅の上にトタンを被せた屋根葺き様式にして古い造りを残している家屋もあります。床面積の大きさからみて、それは明治以降の養蚕に合わせた建築様式だと思われます。
上掲の赤いトタン屋根の古民家は、縦繁格子戸(旅籠屋形式)が両端に配されていますが、開口部を少なくして、柱を塗り隠す真壁となっています。つまり、江戸時代からの町家様式を残したまま、養蚕業に適応した折衷様式となっているわけです。
その下の写真は、二階部分の高さが小さい厨子二階造りを残したまま、塗壁を施し、通風用の小屋根を載せた瓦葺きの古民家です。これも、幕末から明治期の様式と養蚕向けの様式を折衷した造りの家屋です。
ところで、右の写真は西海野の街中の住吉神社の様子を示すものです。
▲蓋屋のなかには住吉社の本殿
▲拝殿前から境内を見る
▲拝殿の内部の様子
信州では、住吉社は養蚕や農業が発達し、それにともなって商業が発達した宿場街などに勧請された場合が多かったようです。
西海野郷もまさにそのな豊かな農業・商業を誇った地区なのでしょう。
さて、西海野の街並みは、街道が河畔の段丘堤防道路に出るところで、終わりになります。
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