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長野県東御市本海野~西海野
西海野の街並み

  今回は、海野宿の西桝形跡から西に向かって西海野の街並みを見て歩きます。
  北国街道の宿駅としての海野の街並みは、西桝形で終わっていました。桝形とは、本来城砦の軍事的防御設備で、敵軍を城の腰部に入れないように防ぎ反撃する仕組みでしたが、徳川幕府は街道の宿駅を軍事施設に準じて位置づけ、街道上の宿場の両端に配置しました。
  西桝形は海野宿の西端で、ここで宿場の街並みは終わっていたのですが、もともと豪族海野氏の城下町だったために、宿場の周囲にいくつもの小さな集落が形成されていたのです。そこで、街道交通や商工業・農業の発展にともなって、平坦な地形をなす西桝形の西に都邑集落が伸び、ことに明治以降に発達したものと思われます。


▲西海野の街並み:ここから400メートルほど東に海野宿の西桝形跡がある

▲千曲川河畔の市営駐車場脇から西海野の家並みを眺める。街並みは田園に囲まれている。


▲昭和期の古民家が並ぶ(昭和レトロな家並み):願行寺跡の西側から心光寺方面を眺める

  街の遺構から察するに、西桝形跡から西の集落のうち心光寺から先は、海野宿に倣って街道の中ほどに用水を通し、その南側に補助路をつくったようです。ただし、この補助路に前庭植栽を施したかどうかはわかりません。
  西海野に残されている古民家としては、江戸時代のものはほとんどなく、構造や大きさから判断して、古くても明治以降のもので、多くは昭和期に立てられたものだと思われます。
  とはいっても、同じ北国街道沿いにあって海野宿に続く西隣の街として景観整備や修復が進んできたことから、和風の美が感じられる落ち着いたたたずまいの街並みです。

■西海野の街並み■


▲心光寺お堂前で道は鍵の手になっている

▲心光寺お堂内部の奥には須弥壇がある

▲心光寺前から海野宿方面を振り返る

  西桝形跡から200メートルほど進むと、街道北側に心光寺のお堂があります。街道の両側には、大きな床面積で瓦葺きの古民家が並んでいます。なにやら昭和レトロな家並み、何か癒される場所です。
  心光寺そのものについては、手許に情報を集めることができません。今ではお堂だけが残されていて、裏手には寺院跡と思しき草原の空き地があるだけです。ただ、心光寺お堂の裏手は、戦国末期まで願行寺という大規模な古刹があったそうです。
  願行寺は、真田家の祖、海野氏が帰依した寺院で、天文年間(16世紀半ば)に海野幸義が祖先の棟綱の菩提を弔うため海野郷に堂宇を建立し、松誉岌香上人を招いて創建したと伝えられています。そして1586年(天正年間)、海野氏の傍系である真田幸隆の子、昌幸が上田城を築いたときに城下に移設し、岌譽道山上人を招いて中興開山し、その後、真田家が手厚く庇護しました。


▲成沢川堤防は石垣で強固に護岸

◆養蚕業の中心地としての街並み◆

  さて、西海野に修復保存されている古民家の多くは昭和期のものと見られます。そのうち瓦葺き二階屋は、どれも床面積が大きな建物です。海野宿は明治以降に養蚕業の中心地のひとつとなり、それにともなって養蚕業に適した二階屋造りの建築様式が普及しました。
  それらの建物は、厨子二階造りから本二階造りになって二階部分が高くなり、室内気温・湿度の変化を防ぐために厚塗りの土壁を施し、二階の屋根の上に通気口を設け小屋根を載せました。これが海野宿独特の蚕室造りです。


▲真壁造りだが旅籠屋様式と蚕室様式の折衷

  海野郷の古民家の造りについては、この後の記事で特集することになりますが、西海野の街並みの家屋の特徴について、もう少し触れておきましょう。
  茅の上にトタンを被せた屋根葺き様式にして古い造りを残している家屋もあります。床面積の大きさからみて、それは明治以降の養蚕に合わせた建築様式だと思われます。
  上掲の赤いトタン屋根の古民家は、縦繁格子戸(旅籠屋形式)が両端に配されていますが、開口部を少なくして、柱を塗り隠す真壁となっています。つまり、江戸時代からの町家様式を残したまま、養蚕業に適応した折衷様式となっているわけです。
  その下の写真は、二階部分の高さが小さい厨子二階造りを残したまま、塗壁を施し、通風用の小屋根を載せた瓦葺きの古民家です。これも、幕末から明治期の様式と養蚕向けの様式を折衷した造りの家屋です。

  ところで、右の写真は西海野の街中の住吉神社の様子を示すものです。


▲蓋屋のなかには住吉社の本殿

▲拝殿前から境内を見る

▲拝殿の内部の様子

  信州では、住吉社は養蚕や農業が発達し、それにともなって商業が発達した宿場街などに勧請された場合が多かったようです。
  西海野郷もまさにそのな豊かな農業・商業を誇った地区なのでしょう。
  さて、西海野の街並みは、街道が河畔の段丘堤防道路に出るところで、終わりになります。


心光寺のお堂と隣接する古民家

床面積の大き二階屋は養蚕や絹糸紡績向けの造り(蚕室造り)か

心光寺境内跡:江戸初期まであった願行寺の跡でもある

修復された古民家。これも養蚕業に適合した昭和期の造り(左室造り)。

烏帽子岳の尾根裾から流れ下ってきた成沢川。この先で千曲川に合流する。

成沢川を越えてさらに街道を西に進む

茅葺き曲り屋造りの古民家。床面積の大きさから明治以降のものだろう。

古い建築様式の土蔵。柱を塗り隠した真壁造りで、養蚕向けの家屋か。

厨子二階造りを保ったまま養蚕向け(蚕室造り)にした古民家

住吉社の境内:奥に瓦葺き拝殿が見える

修復して瓦葺きにした拝殿。奥に本殿が控えている。

街道は街並みを抜けて千曲川河畔の道路となる

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