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長野県東御市本海野
文化財の保存と展示

  海野宿には、この街の歴史と文化を伝える資料を展示する施設(小さな博物館)がいくつかあります。
  街並みの美しさを堪能するのも楽しいのですが、この街の歴史や文化、これまでの人びとの暮らしぶりを想像する手がかりを学んでみるのも素晴らし体験です。ここでは、海野宿にある資料展示館(小さな博物館)を訪ねてみます。


▲矢嶋行康記念館:この堅固なうだつと重厚な二階造りが目印

▲なつかしの玩具展示館:独楽図柄の「のれん」が目印


海野歴史民俗資料館▲

  海野宿の展示館や史料館は、観光シーズンの行事開催日や土日などに開館しています。
  というのも、管理者が必ずしも常時この街に居住しているわけではないからです。居住していても別に(別の場所で)仕事があるようです。
  とくに冬場は閑寂としていますが、私はこの季節も好きで、樹々の枝葉に隠れていない町家家並みを撮影しに行くこともあります。

■資料館・展示館を訪ねる■

◆矢嶋行康記念館◆


▲主屋に設けられた重厚な門

▲主屋の南側の様子 庭の先は田畑

  矢嶋行康記念館は街道南側、本陣・脇本陣の東側斜向かいにあります。じつに重厚な瓦葺きの商家古民家で、棟両端の袖うだつが目印です。主に群馬県各地を相手に手広く蚕種卸商を営んでいた矢嶋家が明治20年に改築した古民家の造りを、修繕を重ねて現在も維持しています。

  宿場町の中心部に屋敷があった矢嶋家家門は江戸時代から有力な商家だったのでしょう。「ふくじまや」という屋号で、向かい合わせに数件ずつ軒を連ねています。
  幕末に生まれた矢嶋行康は、地元信州で学んだ後に江戸に出て国学や世界事情を研鑽して、世界市場をめぐって欧米が競争し合う状況を知り、日本の近代化、ことに殖産興業と貿易立国の必要を痛感。とりわけ当時外貨獲得の最重要手段だた、絹糸繊維の生産と輸出を速成するという課題に挑むことにしたそうです。
  帰郷してからは、海野での養蚕業、ことに蚕種生産・販売の育成と経営を手がけ、この地での資本と技術の集積を指導しました。


▲障子戸を開けて街道を見おろす

▲街道向かい側の町家を見おろす

  2019年10月末に私は海野宿を訪ねました。ところが、先頃の台風で増水した千曲川の支流の内水氾濫で海野郷の千曲川河川敷とアクセス道路が破壊されたため、11月初旬の「海野宿ふれあい祭り」は中止になってしまいました。とはいえ、矢嶋家では祭りに備えて準備をしていということで、記念館内に招待し案内してくれました。
  記念館は明治期に建築された重厚な商家古民家で、以来、修復を重ねて現在にいたっています。その日は、矢嶋行康関連の資料はしまわれていて、親戚筋の画家、矢嶋玲の作品展示が主題となっていたようです。

◆なつかしの玩具展示館◆


▲木製扁額風の看板が目印

  なつかしの玩具展示館は、江戸時代後期の建物を修復した古民家だそうです。二階の高さは、厨子二階ではなくて本格的な二階造りなので、あるいは修築を施しているのかもしれません。
  とはいえ、家屋の入り口は「大板戸にくぐり戸」というまさに江戸期の街道風景そのままです。
  残念ながら、冬場の本日は休館でした。春以降にまた取材に来ることにしましょう。
  東御市観光課の案内資料によると、なつかしい郷土玩具を展示する館で、地元の信州上田小県地方のものだけでなく、広く全国から集められた1000点以上の民芸玩具が並んでいるそうです。
  桃の節句には、海野宿ではいくつもの古民家で歴史を重ねた雛を盛大に飾るイヴェントが開催されます。ここにも雛が並ぶのでしょうか。
  

◆海野宿歴史民俗資料館◆


▲軒下の招き屋根に吊るされた看板

  海野宿歴史民俗資料館は江戸時代寛政年間の古民家を修復した古民家だということです。春のように暖かい日和でしたが、これまた休刊日。
  抑えた出梁造りですが、土壁が占める面積が大きいという点では、蚕室風の造りでもあるようです。
  資料館の看板が「招き屋根」に吊るされているのが妙味です。




矢嶋邸二階北側の廊下 障子戸を開けて街道を見おろす

この日は街角風景や植物を描いた絵画作品を展示

画家 矢嶋玲(矢嶋家の親戚筋)の作品が壁に並ぶ

二階から南側の中庭・奥庭を眺める


この古民家は明治20年に改築ないし修築したらしい

火の見梯子がある辺りが所在地

装飾性を重視した袖うだつ(昭和期改修のもの)


寛政年間(1790年頃)建築の古民家だという

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