北国街道西脇往還(北国西街道)は1614年、松本藩によって制定され、大きな費用と労力をまかなって道路の開削と宿駅の整備ないし建設が進められました。この街道建設には、藩主小笠原秀政のしたたかな交通=経済戦略が見え隠れしているようです。
というのは、その1、2年後には、徳川幕府は中山道を木曾から牛首峠を越えて小野宿経由の道筋から、塩尻回りに下ノ諏訪にいたる経路に変更することを決定したからです。塩尻近辺の街道開削と宿駅建設。整備の実務は幕府によって松本藩に命じられることになります。
北湖街道西往還(善光寺街道)郷原宿▲
善光寺街道松本宿中町通り▲
それまでにもすでに松本藩には中山道和田峠の街道開削普請や冬季の除雪などの作業が割り当てられていて、藩主小笠原家は莫大な出費に苦悩していました。しかし、転んでもただでは起きない小笠原公は、大久保長安病臥〜死去前後の幕閣の権力闘争に巧みに割り込んで、中仙道の経路変更という結果を引き出しました。
北国西街道は洗馬宿から始まり北に向かいます。つまり、中山道木曾路の宿駅贄川の先に本山宿と洗馬宿を建設する――あるいは建設しつつある本山と洗馬を中山道の宿駅に組み込む――計画が見込めるからこそ、かぜん西街道の建設に物流=経済上の効果と成果が期待できるのです。
莫大な出費を強いられ、せっかく西街道をつくるのなら、中仙道と直結させる方が物流=経済をめぐる藩の権益と収益は格段に増加し、藩都松本の商業上の地位は飛躍的に上昇する……こういうもくろみがあっただろうということです。藩財政の破綻のリスクを負っての、長期的な視野での冒険事業でした。
もっとも、この時代、どこの藩も幕府から江戸城やら藩江戸屋敷の建設、各地の河川改修など(天下普請)を命じられていて、藩財政は著しい危機状態にありました。しかし、一方で平和の時代の到来で空前の経済成長が進展していたので、将来への期待に満ちていたのですが。
その冒険はきわめてすぐれた先見の明によるもので、街道建設事業の結果、松本藩領では中山道、北国西街道、千国街道、三州街道、野麦街道(飛騨街道)が縦横に連絡し、日本内陸部でも飛び抜けた交通・物流の要衝になりました。⇒信州の街道絵地図
善光寺街道の宿駅だった郷原を訪ね街歩きします。
旧街道沿いに前庭が並び、本棟造りの古民家が残る美しい街並みを堪能します。 |
春の郷原宿
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城下街松本も善光寺街道の宿駅でした。宿場の中心街は中町です。
中町通りは、漆喰土蔵の古民家が並ぶ美しい街並みです。
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土蔵造り店舗の古民家が並ぶ
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麻績には、古代の律令制のもとでつくられた官道の宿駅が置かれていました。
戦国時代には服部家の城下町で、江戸時代には善光寺街道の宿場となりました。
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麻績宿の風景
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