右の2枚の写真は、大正末期の海野宿の様子を写したものです(出典:東御市教育委員会編『重要伝統的建築物群保存地区概要 海野宿』)。街道の様子とそのときに存在し残っていた民家の状況の断片がわかります。
街道の南側の前庭植栽はほとんど除去され、狭い用水が各戸の前を流れるようになっています。そして、電柱も立てられ、電化が始まっていることもわかります。
これらの古民家のほとんどは、基本的に江戸末期の建築様式を踏襲しているようです。家屋はどれも茅葺きですが、これは江戸時代末から明治期に建てられたものだと見られます。
ここで、多くの民家は妻側が街道に面しています(妻入方式と呼ぶ)が、なかには棟側が街道に面しているもの(棟入方式と呼ぶ)もあります。町屋に課せられた税は街道に面している幅に累進比例していたので、棟入方式の町家は有力な旅籠、商家や問屋・本陣を営む特権的な富裕家門の家屋です。
この建築様式は昭和初期まで維持されていたようです。
ところが、下側の写真の右端には、瓦葺きの商家風の屋根と通風用の小屋根(これまた瓦葺き)がのぞいています。
これは、蚕室造りと呼ばれる様式で、養蚕業、ことに蚕の産卵を管理し卵を育成して近隣県に卸販売する――これを蚕種業と呼ぶ――商家の造りです。こうした商家は信州でも飛び抜けて富裕で、家屋の構想を厨子二階造りから本二階吾造り変え、壁面を塗壁で囲み、瓦葺きにし、通気用の小屋根を載せました。
これによって、家の外気を遮断しながら、通風を保ち、室内の気温と湿度を一定に保つことができるようになりました。まさに養蚕業に適応特化した建築様式です。
◆江戸時代の建築様式◆
▲旅籠形式の茅葺造り
右上掲の2枚の写真は、大正末期に存在した江戸時代(幕末)からの建築様式、茅葺きの町家造りです。
東御市教育委員会の資料によると、海野宿に残されている江戸時代からの茅葺造りは7棟だそうです。そのすべてが茅葺屋根に金属板の覆いが被せられています。
右の写真をもとに話を進めましょう。
金属板葺になっているので、その下の屋根の正確な形がどうなっているのか、完全にはわかりません。外形から見る限り、これらの屋根は入母屋と寄棟の中間にある様式です。教育委員会の資料では入母屋造りとされていますが、素人判断ですが、私としてはむしろ寄棟造りに近いと考えています。
問題は、屋根の上にある大棟小屋根――もともとは煙抜きの仕組みだった――の妻側の造りをどう見るかです。妻側の破風の名残りないし延長と見るのか、それとも寄棟として完結している屋根に大棟を載せた形状なのか、ということです。
屋根の下には横に長く軒庇が設けられています。この形が発展して、屋根と被災のあいだに戸が設えられ、内側に屋根裏部屋ができると、それは厨子二階造りの萌芽となるはずです。
右(一番下)の金属板を被せた茅葺町家は、棟側に破風を設けて屋根裏部屋をつくってあったものを、昭和期に修復して出窓風の造りに改造したもののようです。
◆明治~大正・昭和の建築様式◆
右の厨子二階造りの町家は、明治時代中期でも早い時期に建てられたものだと思われます。
そのように判断した理由は、この厨子二階が、通気を保ち養蚕作業ができるように、かなり高くなっているからです。厨子二階造りの典型は、同じ北国街道の小諸宿本町の商家の造り――二階での立作業が難しい造り――です。
海野宿の厨子二階は、江戸時代の茅葺造りから養蚕業に適応した蚕室造りへの過渡期に位置する様式といえます。二階は、倉庫・物置として使用するという目的よりも、養蚕に利用するために高さもそこそこある広い室内空間が必要だったから造ったということです。
本格的な総二階造りのためには、より多くの木材が必要で、構造の強度も大きくするために、ずっと大きな費用がかかります。養蚕業によって富をさらに蓄えてから本格的な総二階の商家や蚕室を建築できるようになった時期のもの、と見ることもできるでしょう。
してみれば、時代が進むにつれて二階の高さが大きくなるという傾向になるでしょう。そして、床面積がどんどん大きくなっていきます。そして、幕末までの旅籠屋形式から蚕室形式に移っていきます。とはいえ、多くはそれらの組み合わせ折衷様式となったようです。
したがって、外観形式からだけ、建物の建築年代を推し量ることはできそうにありません。
さて、明治時代中期以降に、瓦葺きで塗壁の造りがしだいに取り入れられていきます。ところが、そういう建物は、ほとんどが大正・昭和前期に老朽化して改修修復されたり、同じ建築様式を改良して改築されたりしました。したがって、古民家は保全のためにどれも何ほどかの修復や改修を施されていて、明治時代の建築様式がそのまま純然たる様式で残されているわけではないようです。
さりながら、富裕な商家について見ると、通風用の小屋根が権威を示したり装飾性を重んじたりして採用されていき、また白または灰色の漆喰壁が普及していきます。漆喰壁が普及する前提として、信州での石灰岩採掘・消石灰の生産が盛んになってからのことです。
これらはいずれも非常に費用がかかるので、商家の繁栄ぶりや富裕さを示す指標になるのです。
◆袖壁から「うだつ」へ◆
▲木製の袖壁の町家(うだつへの過渡段階)
金がかかる建築様式といえば、町家の街道側両端に「うだつ」を設けるようになったことがあります。
うだつは、中山道沿いの町家で軒端の「袖うだつ」がそもそもの原型らしく、本来は木製でした。したがって、防火用という後の効用が起源ではなく、おそらく風よけや屋根の強度補強のためだったと思われます。
私見では、これが妻側の壁と一体化し、木製の本うだつに進化したように思われます。
これが、やがて土塗壁と瓦葺き屋根へと仕様が変化し、防火を主目的とするようになったようです。とはいえ、家の見栄えや重厚感を表現できるので、成功し富裕となった家門の威厳を誇示するためというのが、一番の効用です。
ことに海野宿に現存するうだつの多くは装飾性と見栄えを重視したもので、明治末から昭和前期に養蚕業、とりわけ蚕の卵の養殖と卸販売あるいは生糸取引などで急速に富裕化した商家の象徴となったようです。
前掲の資料『海野宿』によると、うだつには以下の種類があるそうです。
このうち、軒うだつは、木曾路の町家造りでは「袖壁」と呼ばれているものとそっくりです。外観上はどのように違うのかわかりません。
下掲の写真図版は『海野宿』p12-13からそのままの引用です。
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