飯山市瑞穂は千曲川の東岸にあって、野沢温泉村と境界を接しています。小菅山は、野沢温泉村の毛無山から南西に延びる稜線が北西に屈曲した先端にあります。小菅の神社と集落は、北から南西に延びる三鈷のような形状の尾根のあいだにあって、西に向かって開けている谷間に位置しています。
小菅の里は古くから修験場となっていて、多くの人びとが参集していました。霊場開山をめぐる伝説では、飛鳥時代の白鳳年間(680年)に修験道の始祖、役小角がこの地を訪れたときに天啓を受けて修験場を開いたと言われています。そして、9世紀はじめに坂上田村麻呂がこの地に来訪し、祠や堂宇を再建し修験寺院として小菅山元隆寺を創建したのだとか。これが小菅神社の起源だそうです。
▲旧小菅山元隆寺の仁王門
田村麻呂が再建したと伝えられる祠堂宇のひとつは、小菅権現を祀る社宮で、小菅権現とは天台の主祭神である摩多羅神だとされています。この小菅権現は、本地垂迹思想では馬頭観音菩薩が人の世に地神の姿で現れたものなののだとか。馬頭観音は加耶吉利堂に祀られるそうです。本地垂迹とは、日本の地の山河などの神々は、仏教の神々(如来や菩薩)がこの世に現れる仮の姿と見なす考え方です。
▲旧元隆寺大聖院跡の護摩堂
日本各地の修験霊場や寺社の創建伝説に役小角や田村麻呂が登場していて、それが史実であるかどうかはかなり疑問です。とはいえ、小菅の里が古代から小菅権現=馬頭観音を主祭神とする修験霊場として開かれ、発展してきたことは確認できそうです。その小菅権現が主祭神ということで、地名となったと思われます。
ところで草創に関する記録では、小菅権現のほかに熊野、金峰、白山、立山、山王、走湯、戸隠の7柱の権現を観請して、これらを合わせて8つの宮殿(八所権現宮)を石窟内に祀ったとも伝えられています。そこから、草創期に熊野の修験者たちがこの地の修験場としての確立に大いに貢献したことが見て取れます。
▲小菅の里の古い案内板絵地図 ⇒拡大絵地図を見る
小菅の里は平安時代後期から室町時代にかけて、小菅山元隆寺が統括する修験霊場として隆盛し、五重塔や大伽藍、多数の小院坊が並び立つ大きな集落となったようです。
上掲の絵地図は、小菅神社里宮の境内脇にあった古い案内絵地図です。おそらく昭和30年代までに残されていたこの辺りの地形をもとにして、小菅神社と旧元隆寺遺構の配置を説明するものです。
というのは、左下の仁王門は村内の道から外れていますが、仁王門が元からの位置だとすると、主参道は仁王門をくぐる形で進むはずですが、明治以降の変化でその参道は失われ、現在の集落、田畑の下に埋もれていることが読み取れるからです。
江戸時代までは、小菅の里集落の全体が元隆寺の境内ないし修験霊場のなかにあったと思われます。
なお、ここで掲載する写真は、夏のシーンは7月中旬、晩秋シーンは11月中旬撮影のものです。
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