◆元隆寺大聖院の歴史◆
菩提院前に立てられた説明板によると、この寺院は、古くは元隆寺大聖院の小院坊のひとつで、桜本坊と呼ばれていたそうです。戦国期に上杉と武田の戦乱で兵火を浴びて焼失したのだとか。
その後、武田家滅亡後の織田・豊臣期に上杉家によって再建され、やがて江戸中期に桜本坊から菩提院に改号されました。
鎌倉時代から室町時代にかけて元隆寺の最盛期には、上の院16坊、中の院10坊、下の院11坊、合計37の院坊を有し、100の末院、6社、5堂が立ち並び、修験、山伏、僧侶が300人いたといわれています。巨大な寺院の総括をしていたのが大聖院でした。
室町末期~戦国期には、小菅の里は元隆寺によって束ねられた城砦のようだったとも伝えられています。
武田家の北信濃攻略にさいしては、その大勢力をもって抵抗反攻したためか、武田家によって灰燼に帰すほどに破壊されたそうです。
▲菩提院の鐘楼
▲境内から南の様子
◆菩提院から大聖院跡まで◆
室町末期(永禄年間)の古い元隆寺絵地図(外部サイト)では、仁王門をくぐった参道は、小菅山に向かってのぼる坂道で、下から下の院、中の院、上の院という区画が並び隣接しています。つまり、小菅集落は3つの院区画に分かれていたわけです。
中の院は、現在の里宮・講堂を中心とした区画で、その一隅に五重塔がありました。そして、現在の菩提院辺りから上の院と呼ばれる区画だったもようです。その辺りから上り坂は急になります。
往時は元隆寺(小菅集落)全体が山林に取り巻かれていたのでしょう。現在は、集落と深い山林との境界に大聖院跡があります。そこは尾根に沿った高台になっていて、西端の段差を石垣で支えています。現在の石垣は幕末期に構築し直したもののようです。
その石垣下が南北に通る杉並木となっています。石垣壇上の護摩堂を見上げながら、杉並木の道を50メートルほど南に歩いてから、石段をのぼって大聖院跡地の草原に入ることになります。
▲観音堂の周りの墓苑には石仏の列
▲石塔の列
大聖院跡の北端が、小菅神社奥社への石段参道の起点となっています。この参道については、小菅神社を探訪する記事で説明することにします。
杉並木から石垣壇上の護摩堂を見上げる
▲護摩堂東脇からの大聖院跡の眺め
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