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長野県飯山市瑞穂
小菅の里の寺院と遺構


▲旧小菅山元隆寺の仁王門

  今回は小菅集落を歩き回り、旧元隆寺の遺構や今でも残る寺院やお堂を経めぐり、往時の大寺院の面影を探ることにします。
  そうすると、旧元隆寺西大門だった仁王門(仁王尊堂)からかなり急な坂道を東に向かって登っていき、集落の様子を観察しながら、奥社への石段参道入り口の南脇にある大聖院跡と護摩堂まで歩くことになります。
  下の絵図は、大聖院跡に立てられた案内板にある旧大聖院の復元図です。跡地の形からすると、南北に長い配置だった思われますが、南北に棟長が20間(36メートル前後)近くもありそうな巨大な建物だったようです。1963年まで建物が存在していたそうです。
  大聖院は、戦国期には旧元隆寺の中核的な存在だったということです。


▲旧元隆寺大聖院の復元想像図(大聖院跡の案内板から)

  有力な伝説では、戦国時代の武田家の攻撃で元隆寺は――五重塔を含めて――ことごとく灰燼に帰し、その後、衰微没落したと言われているようですが、戦国末期から江戸時代中期までには堂塔伽藍は再建され、江戸時代の寺社参詣旅ブームに乗って小菅の里はふたたび隆盛を得たと思われます。
  寺院の徹底的な破壊が起きたのは、明治維新の廃仏太政官令にともなう破却が原因だったのではないでしょうか。

■元隆寺の面影を探して■

◆仁王門の近辺◆

  仁王門は真西向きです。この建物は、幕末まで元隆寺西大門と呼ばれていたので、元通りの位置にあると思われます。
  ところが、往時の参道は失われてしまい、現在、村内の道路は仁王門を挟んで南北2本に分岐して通っています。元隆寺が解体された明治維新以降、旧元隆寺境内の大半が失われ、大半が民家の敷地や田畑の下に埋もれてしまったようです。
  さて、仁王門の前から西向きに下っていく道路が古い参道の名残りと見られます。これは現在は小菅神社里社の参道ともなっていて、仁王門から西に1.2キロメートルほどのところに、小菅神社の二の鳥居が立っています。
  そこから600メートルほど西に千曲川が北に向かって流れています。江戸時代には、流水量が多く川幅が広いこの辺りでは千曲川に架かる橋はなく、飯山城下の谷街道から来た人びとは渡し船で千曲川を渡ったのでしょう。


▲飯山瑞穂を流れる千曲川(北からの眺め)。小菅の里は、左手の尾根の先にある。

▲小菅集落の急な坂道

◆小菅集落を歩く◆

  仁王門を挟んで東にのぼる道は、昔は広い境内のなかの参道が下敷きになっていて、それを拡幅したのかもしれません。
  小菅集落は尾根に挟まれた西向き斜面にあるので、道と集落の周囲は棚田と段々畑になっています。急斜面なので、田畑や民家の敷地は段差の大きな階段状に配置されていて、田畑や敷地の縁は石垣で支えられています。


▲里社前の交流施設「七里庵」

▲七里庵の入り口の様子
▲集落の中心部:古民家が並ぶ

  小菅集落は、旧元隆寺遺構や小菅神社などいくつも名所があるので、近年は観光客が増えているようです。しかし、高齢化がかなり進んだために、集落に残る古民家のいくつかは無住となっています。
  幕末までは、現在い集落がある仁王門から東側に一帯は元隆寺境内で、数多くの小院坊や宿坊が並んでいたのではないでしょうか。


▲里社と旧元隆寺講堂前の様子


旧元隆寺西大門(仁王門:現在は仁王尊堂)

仁王門下の古民家。右手の道が旧参道。

仁王門南側の様子

仁王門の南側の道路から振り返る

集落内の道は東向きに小菅神社奥社に向かう

金貨の敷地や田畑は石垣で仕切られている

道沿いの古民家

大きな土蔵は豊かさと歴史を感じさせる

小菅神社里社前の広場と旧元隆寺講堂

神社皆川の茅葺古民家

集落の中心部:左手には菩提院の鐘楼

旧元隆寺講堂。背後の樹林は小菅神社里社の杜で、壇上に社殿が並んでいる。

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